第一話 同じ帳面、違う目的
「脱いで」
ユエンが言った。
シエンは外套の内側へ入れた手を止め、平凡な女の顔で睨んだ。
「契約初日に、何を言っているの」
「外套だよ。地面が湿っている。帳面を広げるのだろう?」
「先にそう言ってよ」
「ほかに何を脱ぐと思ったのだね?」
短刀を抜きかけると、ユエンは両手を上げた。
この場所は、街道から緩い斜面を下ったところにあり、木々の間には小さな沢が流れている。街からも街道からも、焚き火は見えない。
木々の隙間には、夕明かりがかろうじて残っていた。
シエンは外套を脱ぎ、湿った地面へ広げる。そこへ帳面、骨札、黒い符を並べた。
沢の水を汲んだ椀と、削りかけの干し肉がそばに置かれている。
シエンは干し肉をひと口かじり、帳面を開いた。
「まだ休んでいたらどうだね」
「もう眠った」
「足りているとは言っていない」
「読むのを手伝って」
ユエンはため息をつき、外套を挟んだ向かいへ座った。
帳面の頁には、人名らしい字、数、荷印、見慣れない小さな記号がびっしりと並んでいた。
シエンは、人名から追った。
若い女。子供。姉妹。
(このどれかに、姉さんがいるかもしれない)
「そちらから読むのか」
「悪い?」
「姉が消えたころの名が、今の取引帳にそのまま残っている可能性は低いと思うがね」
「低くても、ないとは言えない」
「先に取引の流れを読めば、古い帳面の保管先へ近づけるかもしれないよ」
「あなたは銀狐の印を先に探したいだけでしょう」
「否定はしない」
同じ帳面を見ている。
だが、追っているものは違う。
シエンは頁の端にある荷印を指した。
「この三本線は、人を示す……と思うわ」
「なぜ分かる?」
「盗賊の売買で使う印よ。横線が男、縦線が女。短い線は子供」
「この丸は?」
「荷車一台分、あるいは一団。組織によって違う」
ユエンが目を細めた。
「古い印に、新しい荷印を重ねているのか」
「古い印?」
ユエンは爪形の記号の横にある、欠けた円を指した。
「これは日付ではない。月の満ち欠けを使った、古い数え方だ」
「満月?」
「違う。欠け始めて三日目を起点に、十二日で巡る」
「どうして?」
「昔の川商人は、潮ではなく水位を読むために使った」
「今は、誰も使っていないでしょう」
「だから私には読めて、君には読めない」
「荷印は読めなかったでしょう」
「——だから、君が必要だ」
あまりに素直に言われて、返す言葉が遅れた。
シエンは視線を帳面へ戻す。
「同じ爪印が、この周期に合わせて出ている」
ユエンが、静かにあとを続ける。
「そして三本線の数が、そのたびに増減する」
「……人を集めて、どこかへ渡している……?」
声が冷えた。
砦で救い出した捕虜たちの姿が浮かぶ。
帳面に書かれた線は、あの大人数よりも、ずっと多い。
「場所は?」
「この波形は川だ。ただし、候補はひとつではない」
ユエンが地面へ候補を書き出した。
北の小さな船着き場。南西の川港。そして、西の大きな渡し場。
「候補の近くまで行けば、月視で絞れる?」
「屋外の様子は見られる。だが倉の中も、誰が仲介人なのかも分からない」
「結局、帳面を読むしかないのね」
「近道がなくて残念だったね」
「あなたも読むのよ」
ユエンは答える代わりに、西の渡し場を示す印を指で叩いた。
「——西だと思う」
「根拠は?」
「副頭領が街を襲ったとき、残党は東から来た。砦から最短で追うなら北へ回るはずなのに、街道を使った」
「人数と影獣を動かすために、広い道が必要だった……から?」
「そうだ。その道は西の渡し場へ続いている。連中は普段から使っていたのだろう」
「……推測ばかりね」
「君の荷印も推測だっただろう」
「なら、明日確かめるわよ」
「そうしよう」
ユエンが候補の円を線で結ぶ。
「川筋、距離、市の日、取引周期。全部を重ねる」
「今夜やる」
「今夜は眠る」
「さっき眠った」
「積もった分には足りていないよ」
シエンは帳面を抱えて、背を向けた。
「聞こえない」
「便利な契約相手だ」
だが、その夜。
帳面を開いたまま、シエンはもう一度、深い眠りに落ちた。




