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幕間 -傾国の美姫-

 街道から緩い斜面を下った場所で休息を取ることにした。

 木々の間を細い沢が流れ、街からも道からも、姿は見えない絶好の場所だ。


「外套を」

「まだ歩ける」

「歩けることと、歩いていいことは別だと——あの女も言っていただろう」


 言い返す言葉が、見つからなかった。

 シエンは外套を脱ぎ、倒木へ腰を下ろす。

 脇腹の布には、また赤い染みが浮いていた。


 ユエンの指が、結び目を解いていく。

 顔は知らない旅人のものなのに、手つきは驚くほど慣れていた。傷を洗い、縫い目を避けて薬を塗り、布を巻き直す。肩の矢傷も、丁寧に確かめられた。


「眠りなさい」

「まだ日が高い」

「四日ぶんの借りは、半日では返らない」


 反論しようとして、やめた。

 瞼が、鉛のように重い。

 帳面を抱えたまま木の根元へ横になると、沢の音が、思ったよりずっと近くで鳴っていた。


(……この男の前で、眠るなんて)


 そう思ったときだった。


 低い声が、聞こえた。


 鼻歌にも似た、ごく静かな旋律だった。

 覚えのある調べではない。それどころか、どこの国のものとも知れない。

 沢のせせらぎと区別がつかないほど細く、けれど確かに、耳の奥へ届いてくる。

 それが触れた途端——瞼の裏が、温かい闇でいっぱいになった。


(……あ)


 抗おうとした。

 警戒しなければ、と思った。

 けれど指の先から力が抜け、身体が地面へ沈んでいく。数えかけた呼吸が、三つ目で溶けた。


 遠ざかる意識の底で、旋律が途切れる。


「——おやすみ」


 そう聞こえた気がした。


 ◇◇  


 目を開けると、木々の隙間が赤かった。


「……もう日の入?」

「そうだ」


 沢の音がする。

 街の気配は、もう届かない。

 シエンは身を起こそうとして、脇腹の痛みに息を詰めた。

 それでも傷は塞がらない。積もった寝不足も、短い眠りでは返しきれなかった。


(……よく、眠った)


 眠れるはずがないと思っていた。知らない林。信用できない男。

 なのに、意識を手放した瞬間のことが、うまく思い出せない。

 顔に触れる。

 平凡な女の面。その下に、外れない美姫がいる。


(あの街で、男たちは私の言葉に従った)


 武器を捨てろと言えば捨てた。座れと言えば座った。

 そして、私を奪い合って殴り合いを始めた。


「ひとつ、訊きたいことがある」


 シエンは膝を抱えたまま言った。


「帳面の先には、仲介人がいる。たぶん男。そいつに美姫の顔を見せて、『知っていることを全部話せ』と命じれば……姉さんへの近道になる?」


 ユエンは干し肉を削る手を止めなかった。


「敵にも使える。魅了の力を使えば戦わずに済む。そう考えるのは、間違い?」

「間違いではない」


 シエンは顔を上げた。


「ただ、君は何を得て、使い終わったあとに何を残すつもりだ」


 ◇◇  


「命令は、相手を賢くしない」


 ユエンは削りかけの肉を置いた。


「知らないことは話せない。勘違いも記憶違いも正さない。『知っていることを話せ』と命じても、その男が事実だと思い込んでいる話が出てくるだけだ。昔の噂も、聞き間違いもね」

「なら、質問を細かく割る。いつ、どこで、誰から受け取ったのか。確かめられることだけを訊く」

「悪くない」

「相手を絞れば、奪い合いも起きない」

「そこまでは、その通りだ」


 ユエンはうなずき、シエンの面を指した。


「だが、美姫の顔を直接見せ、声を聞かせなければ命令できない。つまり君は、素顔を晒す」


 シエンの指が、面の縁をなぞる。


「上から別の面をかぶれば、命令は終わる。祭りの街で起きたのと同じだ。魅了も命令も消える。さて、何が残る?」

「……記憶」

「そうだ。誰に何を話し、何をさせられたのか。恥も、恐怖も、憎しみも残る。そして、訴える相手がいる」


 シエンは正気へ戻った男たちを思い出した。

 逃げられなかったのは、命令のおかげではない。縛り上げ、街の警備役へ引き渡せたからだ。


(あのとき止められたのは、力じゃない。あとの始末ができたから)


「対象を絞っても?」


 ユエンは、しばらく答えなかった。

 やがて、火のない地面へ視線を落とす。


「昔話をしよう」


 ◇◇  


「イン・ティクオより前に、中央大陸をひとつにまとめた古い帝国があった」

「インより前?」

「名も年代も、確かな記録は残っていない」


 シエンは黙って続きを待った。


「残された記録と痕跡を信じるなら、そのころの銀狐はダージではなかった。別の人間の身体と顔と名を使い、皇族や軍を動かす者たち、多くの民を惑わせた」

「民衆も?」

「彼らは銀狐を独占しようとした。お互いの信頼がなくなり、命令が届かず、国が割れた。もとから国には亀裂があったが、銀狐はそこへ独占欲と疑念を注ぎ込んだ」

「それで滅んだの?」

「後世には、『ひとりの美女を巡って国が割れた』とだけ残った」


 ユエンの声が、わずかに硬くなる。


「私は、その言い方が嫌いだ」

「なぜ?」

「顔が国を滅ぼしたのではない。判断を明け渡した権力者。割れかけていた国。そして、それを利用した銀狐。そのすべてが揃って、初めて崩れた」


 美姫は、相手を増やすほど扱いやすくなる力ではない。

 奪い合わせる力だ。


 ◇◇  


「銀狐が何を考えていたかは、本人にしか分からない」


 ユエンが続けた。


「だが、次に現れたとき、方法は変わっていた」

「それがダージ……」

「そう。イン・ティクオでは、皇帝とその周りを取り込んだ。中枢が女ひとりを優先すれば、政務が滞る。軍務が歪む。地方が見捨てられ、空白へ不満が溜まる」

「国中の人を惑わせる必要はなかったのね」

「上を押さえれば足りる」


 ユエンは、そこで言葉を切った。


「ただし、ダージ本人の力は君のものとは違う。あれは特殊だ。男も女も、人ならぬものまで惑わせた」

「私は?」

「面から引き出せる完全な魅了と命令は、今のところ人の男だけのようだね。街の女たちは、君を畏れただけだっただろう」


 シエンは、あの怯えた目を思い出した。


「ひとつ、答えて」

「どうぞ」

「あなたの力で民を救うことはできなかったの? 古代帝国も、イン・ティクオも、国が傾くまで止められなかったの?」


 ユエンは否定しなかった。


「古い帝国の荒れ方は、あまりに不自然だった。作物でも戦でも説明がつかない。私は救えると思って彼の地へ降りた。あのころは、人間を愛していたからね」


 シエンは思わず、ユエンを見た。

 この男が、誰かを救うために行動を起こしたのかと。


「間に合わなかった……」

「着いたときには終わっていた。確かめられたのは、崩れたあとに残った痕跡と記録だけだ。銀狐が絡んでいたと確信したのは、さらにあとだよ」

「見ていたんでしょう」

「月視は、そんなに便利なものではない」


 言い訳ではなく、事実を並べる口調だった。


「世界のどこかにいる銀狐を探し出すことはできない。人になった姿では正体も見抜けない。イン・ティクオでは、古い帝国と似た痕跡を追って、ようやくダージへ辿り着いた」

「でも、国は傾いた」

「傾い《《て》》いただ」


 ユエンは、それだけ言った。

 シエンは、この男が二つの国を見送ったのだと知った。

 全知の神ではない。いつも、遅れて着いた者として。


(そして、その顔をした仮面を私に売った)


 ◇◇  


「使わないとは言わない」


 シエンが言うと、ユエンがわずかに目を見開いた。


「捨てるには惜しい力よ。姉さんに近づけるなら、使う」

「どう使う?」

「仲介人の尋問に使うなら、条件を決める」


 シエンは膝の上で指を組んだ。


「そいつが本当に情報を持っている根拠があること。顔を見る者と声を聞く者を、私が把握できること。隠れて見ている目がないこと」

「解いたあとは?」

「その場にいた者を拘束して、引き渡す。誰が誰へ報告するのかも分からないままでは使わない」

「戦いの最中まで、同じ条件で縛るのか?」

「これは、情報を聞き出すために計画して使う場合の話よ」


 シエンは、はっきりと言った。


「命がかかったときまで同じとは言わない。でも、尋問なら、どれかひとつでも欠けたら使わない」

「異論はない」


 ユエンは許可も禁止もしなかった。

 ただ、判断を受け取った。


「美姫なら、男ひとりくらい従わせられる。でも、姉さんへつながるのは、従順な誤情報じゃない」


 シエンは敷布の上へ視線を落とした。

 九つの影の帳面。骨の札。破れずに残った黒い符。


「次の仲介人には、顔を見せない。まずは、これを確かめる」

「証言より、証拠か」

「一致する証拠よ」


 信用したわけではない。

 ユエンが何を隠しているのかも、まだ分からない。

 それでも、この男は危険な力を渡した相手を、禁じもせず、煽りもしなかった。


(判断の材料が、ひとつ増えた)


 木々の隙間に残っていた赤は、もう薄い。

 シエンは帳面へ手を伸ばした。


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