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第六話 信用ではなく契約

 夜が、明け始めていた。

 東の空が白み、消え残った祭りの灯を薄くしていく。

 街の通りには、壊れた屋台と黒い泥が残っていた。住人たちは負傷者を運び、火の消えた灯籠をひとつずつ外している。

 祭りは、終わった。

 歓声の代わりに、呻き声と木槌の音だけが響いている。

 シエンが面屋の奥へ戻ろうとしたところで、年配の女に腕をつかまれた。


「あんたも怪我人だろう」

「平気よ」

「ふらふらしながら言う台詞じゃないね」


 女は祭りの客らしい。狐面を頭の横にずらし、薬箱を抱えている。

 ——美姫の顔を見たときには、畏れて近づけなかった女だ。

 今は平凡な顔を見ても、何の反応も示さない。


「私は後でいい」

「後に回して死ぬ奴を何人も見たよ。座りな」


 有無を言わせない声だった。

 命令の力などないのに、シエンは素直に木箱へ座った。

 女が外套を開き、脇腹の布を剥がす。


「これは『浅い』なんて言わないよ」

「歩けるわ」

「歩けることと、放っていいことは別だ」


 傷を洗われ、息が詰まる。

 縫い直す針が皮膚を通るたび、頭痛まで強くなった。肩の矢傷にも薬を塗られ、きつく布を巻かれる。


「頭も打ったね?」

「二度」

「自慢する回数じゃないよ。吐き気は?」

「少し」

「しばらく寝ていな」

「急いでいる」

「死ぬのを?」


 ——言い返せなかった。

 女は最後の結び目を締め、シエンの平凡な顔をじっと見た。


「さっきの綺麗な人を、知らないかい?」


 シエンの指が、止まる。


「……どうして?」

「礼を言いたいの。怖い人だったけど、あの人がいなけりゃ、もっと死んでた」


 自分がその女だとは、言わなかった。


「もう、いないわ」

「そうかい」


 年配の女は、残念そうに立ち上がる。


「なら、会ったら伝えておくれ。——顔を見た男どもには、近づかないほうがいいってね」

「……よく、分かっている」


 女が去ったあと、シエンは面屋の奥へ入った。

 応急処置をしても、脇腹と肩は痛む。頭痛は休まなければ消えない。四日間の疲労も同じだ。

 平凡な女の姿になっても、傷は元の位置に残っていた。

 見た目だけが変わり——痛みだけが、シエンのものだった。

 目の前の敷布に、持ち物が並んでいる。

 九つの影が記された取引記録。髑髏の破片。副頭領から奪った黒い符。九つの影と獣の爪痕が刻まれた、骨の札。

 ユエンが、帳面と骨札を見比べる。


「同じ印だ」

「見れば分かるわ」

「符丁も、一つだけ読めた」


 シエンが顔を上げる。

 ユエンは帳面の端にある、小さな爪形の印を指した。


「骨札と同じ形だ。取引の日ではなく、仲介人を示している可能性が高い」

「……ラゴウ?」

「本人か、その配下かは分からない」

「どこへ行けば会える?」

「この印がついた頁には、川を示す符丁が繰り返されている。ここから西へ行けば、大きな渡し場がある」

「そこに仲介人がいるの?」

「まだ分からない。川に関わる場所はほかにもある。ただ、最初に調べる有力な候補にはなる」

「可能性ばかりね」

「確実なことしか追わないなら、九影には一生届かない」


 気に入らない。

 ——だが、正しい。

 シエンは帳面を閉じた。


「もう一つ答えて。銀狐は、あなたから何を盗んだの?」


 ユエンはしばらく黙り、自分の頬に触れた。


「——私の、顔だ」

「顔?」

「銀狐に奪われた。私はそれを取り戻すために、あれを追っている」

「だから、何枚も別人の顔をかぶっているの?」

「それ以上は、今は話さない」


 ユエンがただの人間だとは、もう思っていない。

 だが少なくとも——ユエンが銀狐を追う理由だけは、分かった。


「次は、代金の話よ」

「銭は受け取った」

「残りがあると言った」

「ああ」

「今、決める。『あなたが好きなときに、好きなことを命じられる』約束にはしない」


 ユエンがわずかに笑う。


「面をかぶった途端、ずいぶん契約に厳しくなった」

「笑わないで」

「笑っていない」

「顔が笑っている」

「この面は、そういう顔なんだ」


 また、別人の顔を言い訳に使う。

 シエンは短刀を帳面の横に置いた。


「残りの代金は一度だけ。銀狐を止めることか、あなたが顔を取り戻すことに直接関係する協力だけ」

「妥当だ」

「私に死ねとは言えない。身体も人格も渡さない。姉の捜索を諦めろとも言わせない。関係のない人間を殺せという要求も拒否する」

「分かった」

「まだある。要求を聞いて、私は受けるか断るかを選び、方法を変える交渉もできる」

「それでは代金にならないかもしれない」

「なら、仮面を外して」


 ユエンが、黙った。


「……できないのでしょう?」

「痛いところを突く」

「私の顔ほどではない」


 しばらく、互いに譲らなかった。

 先に息を吐いたのは、ユエンだった。


「いいだろう。要求は一度。銀狐か、私の顔の奪還に直接関わる協力に限る。内容を示した時点で、君は受諾、拒否、再交渉ができる」

「拒否したら?」

「支払いが残る。それだけだ。力ずくでは従わせない」

「魔術で縛ることも?」

「しない」

「信じられない」

「では、紙に書くかい?」

「——紙のほうが、信用できる」


 ユエンは苦笑し、帳面とは別の紙に条件を書いた。

 シエンは一字ずつ確認する。

 符丁ではない。抜け道になる言葉もない。

 二人で署名し、一枚ずつ持った。


「これで美姫の代金は保留」

「未払いだ」

「保留よ」


 言い切って、自分の紙を外套の内側にしまう。


「次に、同行の話だ」


 ユエンが骨札を持ち上げた。


「代金とは別でしょう」

「もちろん」

「私は姉を探す。九影を追う。あなたは銀狐を追う。目的が重なる間だけ、情報と力を貸し合う」

「異論はない」

「私の同意なしに仮面をかぶせない。私の持ち物に触らない。見ていたことを隠して、あとから『知っていた』と言うのも禁止」

「最後は難しいな」

「なぜ?」

「話せないこともある」

「なら、私に関係する情報を隠さない」

「君に関係するかどうかを、誰が決める?」

「私」

「それでは何でも関係すると言える」

「あなた」

「何でも関係ないと言える」


 二人は、睨み合った。


(契約って……敵を殺すより、難しい)


「九影、銀狐、美姫の顔、姉に関する情報は隠さない」


 シエンが、範囲を絞る。


「確証のない推測は?」

「推測だと断ったうえで話す」

「分かった。代わりに、君も帳面や髑髏の破片を勝手に捨てたり、私に隠れて九影と取引したりしない」

「しない」

「戦うときは?」

「自分の身は自分で守る」

「街の人々を見捨てたと怒ったのに?」

「助けられるなら助ける。でも、あなたに英雄になれとは言わない」

「助かるよ」

「ただし——助けられない理由を隠して、私を試すのはやめて」


 ユエンから、笑みが消えた。


「善処する」

「『守る』と、言って」

「……守る」


 ようやく、条件が並んだ。

 信用したわけではない。

 ユエンが月の下で何を見ていたのか。なぜ砦を襲う前からシエンに目をつけていたのか。美姫の仮面が、なぜ自分の顔になったのか。

 ——何ひとつ、答えは出ていない。

 それでも、一人では帳面を読めない。外れない顔の扱いも分からない。

 そしてユエンもまた、銀狐に繋がる手掛かりを必要としている。


「契約する」


 シエンは手を差し出した。


「信用ではなく?」

「信用は、あなたがこれから得るものよ」

「君もだろう」

「私はもう、街をひとつ救ってみせた。信用が行動で得られるものなら、私はもう払ってる」

「私も梁を持ち上げた」

「それで同じつもり?」

「冗談だ」


 ユエンが、手を握る。

 目立たない男の手。

 その下に、あと何枚の顔があるのかは——分からない。

 二人は昼まで、面屋で休んだ。

 シエンの傷は、まだ塞がっていない。

 それでも、追手はもういない。盗賊の兄弟は死に、砦も失われた。

 ——第一の戦いは、終わった。

 午後、二人は西門から街を出た。

 渡し場を目指して旅を再開するためではない。人目と黒い泥の臭いから離れ、街の外で安全に休める場所へ移るためだ。


 シエンは平凡な女の仮面をかぶり、外套の内側に帳面と髑髏の破片を抱えている。

 ユエンは、朝までとは別の男の顔になっていた。


「その顔は?」

「旅人だ」

「名前は?」

「知らない」

「また死者?」

「面の話は、歩きながらにしよう」

「逃げないで」

「逃げてはいない。西へ向かっている」

「渡し場まで行くつもり?」

「今日の君では無理だ。日が傾き始める前には、今日の移動を終える」

「決めるのは私よ」

「では、歩きながら弱音を吐かずに言い直してくれ」


 シエンは睨んだが、反論はできなかった。

 石畳の道の先に、川へ続く平野が広がっていた。

 シエンは一度だけ、振り返る。

 壊れた街の向こうに、面屋はもう見えない。

 ——自分の顔も、あそこへ置いてきたような気がした。

 平凡な女の仮面に触れる。

 その下には、外せない美姫がいる。

 さらにその下に、自分が残っているのかは……分からない。


「ラゴウという名に、心当たりは?」


 歩きながら訊く。

 ユエンは、少しだけ間を置いた。


「ない」

「今の間は何?」

「考えていた」

「嘘」

「契約初日から厳しいな」

「隠さないと約束したでしょう」


 ユエンは前を向いたまま答える。


「——銀狐の近くには、昔から大きな獣が集まる」

「それだけ?」

「今は、それだけだ」


 大きな男。刃も通らない化け物。九影大盗賊団。

 姉に繋がるかもしれない、初めての名前。

 シエンは歩調を速めた。

 隣を歩く男は、信用できない。外套の下の顔も、自分のものではない。

 それでも——進む道だけは、昨日までよりはっきりと見えていた。

 西の渡し場。帳面を読み解くための、最初の有力な候補。仲介人が本当にそこへ現れるのかは、まだ分からない。

 そして、ラゴウ。

 五歳のあの夜から、手の届かなかった九つの影へ。

 日はまだ高いが、二人は街から西へ三刻ほど進んだ先の林で足を止め、その日の移動を終えることにした。


 シエンはようやく——最初の一歩を、踏み出した。


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