第五話 外れない仮面
シエンは面屋へ戻ると、黒い垂れ幕を閉めた。
外から美姫の顔が見えなくなった途端、ようやく、息を吐けた。
「外す」
「待ったほうがいい」
「なぜ?」
「今、調べている」
「私の顔でしょう」
シエンは頬に指をかけた。
仮面の縁を探す。
耳の前。顎の下。額の生え際。
——どこにも、ない。
「……縁が、ない」
爪を立てる。皮膚が赤くなるだけだった。
貼りついているのでは、ない。
仮面と皮膚の『境目』そのものが——消えている。
「ユエン」
「私にも見えている」
「外して」
ユエンが、黙った。
「あなたが作ったのでしょう。外して」
「……動かないで」
男の指が、頬へ近づく。
触れられる直前、シエンはその手首をつかんだ。
「何をするの」
「縁を探す」
「なかったら?」
「別の方法を考える」
ユエンの声から、いつもの余裕が消えていた。
シエンは、手を離す。
男の指が、額から顎までを慎重になぞっていく。
何度確かめても——縁は、見つからなかった。
「予想して、いなかったのね」
「ああ」
初めて、ユエンが素直に認めた。
「面が君を嫌っていないとは思った。だが、ここまで馴染むとは思わなかった」
「馴染んだ?」
「これはもう、上からかぶった面ではない」
ユエンは、手を離した。
「——君の顔に、なっている」
胸の奥が、冷えた。
「……私の顔は?」
「『下にある』とは、言えない」
「火傷は?」
「今、表にはない」
「そんなことを訊いているんじゃない!」
棚の仮面が震えるほど、声が響いた。
外で、男たちがざわめく。
シエンは慌てて口を押さえた。
——その唇さえ、自分のものではない。
火傷の顔が、好きだったわけではない。
鏡を見るたび、炎を思い出した。誰かに見られるのが、怖かった。
けれど。
だからといって、勝手に失われていい顔ではない。
あの傷も含めて——十六年間、生きてきた自分の顔だった。
棚の端に、小さな青銅の鏡がある。
シエンは、それを取った。
磨き込まれた銅の面は、水を張ったように鈍く光っている。
その底に、女がいた。
灯りひとつないのに、銅の底に沈む肌は、それ自体が仄白く光って見えた。
墨をひと息に引いたような眉。夜をふた滴、落としたような瞳。
引きつれた頬も、崩れた唇も、閉じきらない瞼も——どこにもない。
幼い日からずっと、鏡を見るたびに目を伏せさせてきたものが、拭ったように消えていた。
姉によく似た、けれど姉ではない女。
数百年前に死んだはずの美姫が、曇った銅の底から、こちらを見返している。
指を、頬へ当てた。
鏡の中の女も、同じ場所へ指を当てる。
瞬けば、瞬く。息を止めれば、止める。
——従順だった。あまりにも。
(——綺麗)
そう、思ってしまった。
自分の顔のはずのものに、一瞬、目を奪われた。
これは、人の美しさではない。夜の底で咲く花か、抜き身の刃に似た——見る者の都合を、いっさい問わない美しさだ。
くすんだ銅の曇りさえ、この顔の前では言い訳のように薄れていく。
だから余計に、恐ろしかった。
「返して」
鏡の中の女が、唇を動かす。
「私の顔を、返して」
「……今すぐ戻す方法は、分からない」
シエンは鏡をユエンへ投げつけた。
男は避けずに、受け止める。
「分からない物を、売ったの?」
「『分からない可能性がある』とは言った」
「言葉遊びをしている場合?」
「していない」
ユエンの目は、真剣だった。
——それが、さらに腹立たしい。
「あなたなら術を止められたかもしれない。なのに、自分では動かなかった。私の名前も知っていた。髑髏が分銅で砕かれたことも、破片を拾ったことも」
短刀を抜き、男の喉へ向ける。
「いつから、見ていたの」
ユエンの顔が——変わった。
一瞬だった。
指が頬を横切ったかと思うと、三十歳ほどの男が、四十を過ぎた別人になる。
顔だけではない。肩幅がわずかに広がり、背丈も変わる。声まで、低くなった。
「やはり、変装だったのね」
「——人物の面だ」
ユエンの指には、薄い一枚の仮面が挟まれていた。
外したはずなのに、そこには先ほどまでの男の顔が、そのまま残っている。
「……何枚、重ねているの」
「覚えてない」
「素顔は?」
「答えたくない」
「私は答えてほしい」
「それでもだ」
シエンは刃先を、押しつけた。
「いつから、私を見ていたの」
「砦を襲うより前から、何度か」
「あなたも近くにいたの?」
「九影の痕跡を追っていた。君が私の目の届く内側へ入った夜だけ、姿が見えた」
「目の、届く内側?」
ユエンは垂れ幕の隙間から、夜明け前の空を見た。
「月が出ている夜なら、私を中心に三里ばかりを見渡せる。……それより外は、私にとっても闇と変わらない」
「店では、『街の外で噂になっている』と言ったわね」
「噂があるのも事実だ」
「でも、それが私の名前を知った理由ではなかった」
「ああ。本当の情報源を隠すために、噂の話だけをした」
「——それを、嘘と言うのよ」
「否定はしない」
悪びれずに認めるところが、さらに気に入らない。
「ただし、月光が届く場所だけだ。空から見下ろすように、一箇所ずつ。……声までは、届かない」
「なら、どうして私の名前を」
「口の動きを読んだ。以前、誰かが君を『シエン』と呼んだ。その唇の形が、そう読めたというだけだ」
「……ずいぶん、当てにならない読み方ね」
「当てにならないさ。実際、しばらくは『シエイ』かとも思っていた」
「思考も記憶も読めない。月の差さない建物の中も見えない」
「私を、監視していたの?」
「銀狐と九影の手掛かりを探していた。君が気になった理由までは——まだ、話せない」
「分銅も見ていた」
「街道には月光が届いていた」
「助けようと思わなかったわけ?」
「君は誰かに助けを求めていなかった」
「今も求めていない」
「そうだろうね」
ユエンは短刀を恐れる様子もなく、美姫の顔を見つめた。
「それでも、今は別の面が必要だ」
「また私に、別人の顔をかぶれと?」
「そのまま外へ出れば、男たちがまた争う」
——否定、できなかった。
外では、シエンの声を聞いただけで男たちがざわめいている。
この顔を隠さなければ、助けたはずの街を、もう一度壊すことになる。
ユエンが棚の奥から、一枚の面を取り出した。
日に焼けた肌。目立たない黒髪。美人でも醜女でもない——街ですれ違えば思い出せない、平凡な女の顔。
「誰?」
「もう死んでいる」
「名前を訊いた」
「教えられない」
「知らないの?」
ユエンは、答えなかった。
シエンは、面を見た。
死者の顔。また、自分ではない誰か。
嫌悪で、指が動かない。
——だが、美姫の顔をさらし続けることはできない。
「これも、外れなくなる?」
「通常の人物面だ。自分で外したいと思えば外れる」
「美姫も、『通常の面』だと思っていたのでしょう」
「……否定できない」
「最低の売り手ね」
「返品は受けつけたいのだが」
「できないくせに」
シエンは、面を奪い取った。
もう、迷わない。
美姫の顔の上に、平凡な女の面を重ねる。
今度は、変化がはっきりと分かった。
視線が低くなる。長かった手足が縮み、細身の身体に柔らかな肉づきが加わる。黒髪は肩の辺りで切り揃えられ、日に焼けた手は、短刀を握り続けてきた自分の手とは別人のものに見えた。
「なに、これ……」
口から出た声も、違う。
少し高く、素朴で、耳に残らない声。言葉の調子まで、どこか柔らかい。
だが——記憶は、自分のものだった。
知らない女の人生が流れ込んでくることも、ない。
「人格まで変わるわけではない」
「先に言って」
「訊かれなかった」
シエンは睨んだ。
平凡な女の顔で睨んでも、迫力は半分も出なかった。
「上の面だけが働く。今は美姫の力も止まっている」
「——確かめる」
シエンは垂れ幕を少しだけ開け、面屋と通りの境目に立った。
外に座っていた男が、こちらを見る。
……何の反応も、ない。
「あの方はどこだ!」
男はシエンの肩越しに目を凝らした。
だがその視線は、暗い店内へ届く直前、するりと横へ滑る。一歩近づこうとした身体も、何かを避けるように境目の脇へ逸れた。
(——変わらず面屋を認識できていないみたいね)
「座っていなさい」
命じても、男は従わなかった。
「なんだ、あんた」
美姫の命令は、完全に消えている。
シエンは自分から通りへ出ると、男の足を払い、地面へ転がした。
「……戦える」
身体は小さくなった。重心も、腕の長さも違う。慣れは必要だ。
それでも——美姫を、隠せる。
シエンは平凡な女の面に手をかけ、「外したい」と念じた。
するりと、剥がれる。
黒い瞳の美姫へ戻った瞬間、倒れた男が息を呑んだ。
「ああ、あなたは——」
すぐに面を重ね直す。
男の熱が冷め、困惑に変わった。
通りのあちこちで、同じ変化が起きていた。
座り込んでいた男たちが、長い夢から覚めたように瞬きをする。
「俺は……何を……」
縄で縛られた残党たちも正気に戻り、慌てて身をよじった。
「動くな!」
母親たちと街の警備役が、棒や槍を構える。
男たちは、その声には従わなかった。美姫の命令は、もう消えている。
——それでも、戦いは始まらなかった。
通りの中央には副頭領の死体があり、影獣は泥と化している。残党は武器を失い、全員が縄と戸板で拘束されていた。命令が消えても、もう逃げられない。
警備役がひとりずつ縄を確かめ、街の詰所へ引き立てていく。
魅了されていた男のひとりが、妻らしい女へおずおずと近づいた。
「俺は……お前を、押しのけたのか?」
「あとで話す。今は怪我人を運んでちょうだい」
女は、怒っていた。
——だが、夫の手を振り払いはしなかった。
美姫の顔が生んだ熱だけが消え、そこで起きたことと、傷は残っている。
「上っ面だけが、有効か」
シエンは確かめるように言う。
「そういうことだ」
「美姫の面は、もう外せない?」
「今のところは」
——今のところ。
希望に聞こえる言葉では、なかった。




