第三話 巨大な目の内側
『来い』
副頭領の声が、空から降る。
『俺のところへ来い。お前は俺のものだ』
「嫌よ」
シエンは、即答した。
男の頬が引きつる。
(この男、まだ自分が『命令する側』だと思ってる)
自分がすでに美姫から目を離せなくなっていることにも、気づいていない。
狼が三頭、石畳を蹴った。
シエンは、走らない。
走れば傷が開く。長くはもたない。
一頭目の進路だけを見て、直前で半歩ずれる。黒い牙が外套を裂いた。
すれ違いざま、胸に浮いた符を短刀で断つ。狼は二歩も進めず、黒い泥となって石畳に崩れた。
二頭目の胸へ短刀を走らせ、符を切る。こちらも黒い泥が足元へ広がった。
三頭目は——シエンを避け、ユエンへ飛びかかった。
「危ない!」
叫んだ直後、自分に腹が立った。
(……あの男を、心配する必要なんてない)
ユエンは、狼の顎へ片手を添えた。
軽く押しただけに、見えた。
狼の巨体が横へ流れ、壁へ叩きつけられる。
ユエンは起き上がろうとする狼の首を、片足で踏みつけた。石畳にひびが走る。
シエンは胸に浮いた符へ短刀を突き立てた。影が泥となって崩れる。
符が裂けた一瞬、その奥に皮を剥がされた狼の死骸が見えた。
やはり、殺した獣に符を埋め、影に変えている。
「これを繰り返して、一頭ずつ片づけていけば……」
「それでは間に合わない」
「なら、副頭領を直接倒せば?」
「街のあちこちで獣が暴れている。私がここであの男を倒して、すべてが止まる保証はなかった」
ユエンの声は、あくまで冷静だった。
「……言い訳?」
「事情の説明だよ。信じるかは君が決めればいい」
「あなたは、私にこれをかぶらせたかった」
「適しているとは考えた。だが、強制はしたくなかった」
「人の顔を勝手に売っておいて?」
「だから、選ばせた」
答えになっているようで、なっていない。
人間を助けたいという熱もない。だが、人が死ぬのを仮面の売り文句にしただけでも、ないらしい。
(……今は、それで充分)
門前まで、あと二十歩。
副頭領の足元から伸びる影は、街中へ枝分かれしている。
両手の符と、影獣の身体に埋め込まれた符。
シエンは、街道の戦いで最後の残党が燃やした符を思い出していた。
あの符は『位置』を伝えた。空の目は、細かな顔までは見えていなかったのだろう。だから副頭領は街全体を封鎖し、「髑髏の女を差し出せ」と叫ぶしかなかった。
——今は、違う。
男は美姫の顔を、はっきりと見ている。
「その手にある符は、獣の符と繋がっているのね」
副頭領の指が、震えた。
それだけで、答えは分かった。
「ち、違う! 来るな! いや、来い! 俺だけを見ろ!」
命令が、支離滅裂になっていく。
熊の影がシエンへ迫る。同時に、門の外から別の猪が街へ入ろうとする。術者の迷いに引きずられ、影獣同士が互いにぶつかり合った。
「——全部、止めなさい」
シエンの声が、甘く落ちる。
副頭領の身体が、硬直した。
「お、お前の命令など——」
「手に持っている黒い符を、すべて破るの」
「で、できない」
男は苦しげに首を振る。
——それでも目だけは、シエンから離れない。
「それを失えば、俺は……兄貴の仇を……」
「兄の仇を討つために、関係のない人まで殺すの?」
「黙れ!」
符を握る指に力が入る。
黒い目が、大きく見開かれた。街中の影獣が、痛みに悶えるように吠える。
「俺はお前を殺す! 殺して、その顔を俺だけのものにする!」
(魅了されても……憎しみは、消えない)
むしろ欲望と混ざり合い、さらに醜く歪んでいく。
シエンは、一歩近づいた。
副頭領が、息を呑む。
「私を見て」
「見ている……」
「私の声だけを、聞いて」
「聞いている……」
「すべての影獣との繋がりを、断ちなさい。あなたの手で——今すぐ」
「……はい」
副頭領の指が、動いた。
右手の符を、左手の爪で裂く。
一枚。
門を塞いでいた熊が、崩れた。
二枚。
屋根の上の狼が、泥へ落ちる。
三枚。
路地の猪が、消える。
符が裂かれるたび、街のどこかで獣の断末魔に似た音が響いた。
——だが、あれは死ぬ声ではない。
獣たちは、とうに殺されている。残っていた死体が、ようやく動くのをやめていくだけだ。
最後の一枚が、裂けた。
空の巨大な目に、亀裂が走る。
瞳が崩れ、黒煙が夜明け前の空へ散っていく。
影獣は、すべて黒い泥となった。
街には壊れた屋根も、倒れた屋台も残っている。失われた命も、戻らない。
それでも——新しい悲鳴だけは、止まった。
副頭領は、破れた符をぱらぱらと手から落とした。
「できた……」
褒められるのを待つ子供のような顔で、シエンを見る。
「これで、俺だけを見てくれるのか?」
シエンは、答えなかった。
短刀を、握り直す。
借りた力で、道は開いた。
——ここから先は、自分の仕事だ。




