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第二話 命令する者

 止まっていた熊の影が、前脚を振り上げた。

 狙いは、住人ではない。

 ——シエンの周りにいる、男たちだった。


「伏せて!」


 命令を受けた男たちが、一斉に地面へ身を投げる。

 黒い爪が、頭上を薙いだ。

 屋台の柱が三本まとめてへし折れ、破片が通りへ飛び散る。


(——女の人たちが、動いてない!)


 命令が、効いていないのだ。

 シエンは近くの少女を抱え、倒れてくる屋台の下から転がり出た。

 肩の傷が開く。腕から力が抜けそうになる。それでも、少女を母親のもとへ押し出した。


「女の人たちは、子供を連れて面屋の前へ! 走って!」


 命令ではない。ただの、指示だ。

 母親は一瞬だけ、美姫の顔へ怯えた目を向けた。

 だが、娘を抱きしめると強くうなずいた。


「聞いたでしょう! 子供を先に!」


 女たちが、動き出す。

 倒れた者に肩を貸し、泣く子供の手を引き、面屋の前へ向かっていく。


(男の人たちまで全員動かしたら……また、奪い合いが始まる)


 かといって、その場に縛りつけたままでは影獣に殺される。

 敵と味方で分けては、いけない。美姫の力は、心の中身まで正しく見分けてくれるものではないのだから。

 ——なら、行動で分ける。


「そこにいる男たちは、立って」


 男たちが、起き上がる。

 百人近い視線が、シエンへ吸いついた。

 背筋に、冷たいものが走る。

 火傷痕を見られたときの怖さとは、違う。彼らは誰も笑っていない。

 ——だからこそ、怖かった。

 自分のたった一言で、彼らの意思が消えるのだ。


「女性と子供を傷つけない。私を奪い合わない。互いにも手を出さない」


 条件を、重ねていく。

 先に命じた『武器を置く』も消えていない。新しい命令は古い命令を押し流すのではなく、その上へ積み重なっていくらしい。


(抜け道を、残しちゃいけない)


「倒れた人をあそこの面屋の前まで運んで。それが終わったら、道の両側へ分かれて座る。私が許すまで立たない」

「はい」


 何十もの声が、ぴたりと重なった。

 住人も、残党も——同じ返事をした。

 男たちは負傷者を運び始める。残党のひとりが、さっきまで自分が斬りかかっていた老人を、恭しく背負った。


(魅了の力が作った、偽物の善意。……ただ、従わせているだけ)


 それでも今は、命を救える。


「言葉を選ぶのが上手いな」


 ユエンが隣へ来る。


「黙って。気が散る」

「私は何をすればいい?」

「命令が効かないなら、自分で考えて」

「厳しい客だ」


 そう言いながら、ユエンは崩れかけた梁《はり》を軽々と持ち上げた。

 見た目は目立たない男のまま。なのにその腕力は、明らかに人間のものではない。

 下敷きになっていた女が、隙間から這い出す。

 シエンは、見なかったことにした。今は、問いを増やすときではない。

 空から、黒い鳥が急降下してくる。


「右!」


 女たちが子供を抱えて散る。

 シエンは瓦を拾い、鳥の胸に浮かぶ符へ投げつけた。

 ——頭痛で、狙いがわずかにぶれる。

 瓦は符の横をかすめ、黒い羽根を散らしただけだった。

 鳥が、旋回して向きを変える。


「私を見なさい!」


 影獣の動きが、一瞬止まった。

 黒い眼窩《がんか》が、シエンへ向く。

 従いはしない。だが——恐れている。

 その一瞬で、充分だった。

 シエンは落ちていた弓を蹴り上げ、命令で座らせていた残党の弓兵へ渡した。


「あの鳥の胸にある符だけを、射って」

「仰せのままに」


 弓兵が立ち上がり、矢をつがえる。

 放たれた矢が——黒い符を、貫いた。

 鳥の影が崩れる。羽根が黒い泥に変わり、腐った獣の死骸が一瞬だけ姿を見せた。そのまま石畳へ落ち、泥となって広がっていく。

 弓兵が、うっとりとシエンへ歩み寄ろうとする。


「元の場所へ戻って、座って」

「……はい」


 名残惜しそうに、従う。


(命令をひとつ足すたびに……別の危険が、生まれる)


 力そのものが賢いわけではない。使う者が間違えれば、そのまま災いになる。


「——道は空いた」


 ユエンが言った。

 面屋の前には女性と子供、負傷者が集まっている。男たちは通りの左右に座り、中央には、門までまっすぐ続く道ができていた。

 その先に、副頭領がいる。

 赤い衣。青ざめた顔。両手には、扇のように開かれた黒い符。

 兄を失った憎しみと、美姫を求める欲望。二つに引き裂かれながら、それでも術を維持している。


「行くのか?」

「終わらせる」


 シエンは短刀を拾った。

 脇腹を押さえた手が、赤く濡れる。


「その身体で?」

「この顔に、治す力はないみたいだから」

「残念だったね」

「最初から期待していない」


 シエンは門へ向かって歩き出す。

 左右に座る男たちが、一斉に顔を上げた。


「私を追わない。ここに残って、女性と子供を守って」


 男たちの足から、立ち上がろうとする力が抜けた。


「ただし、影獣が来たら符だけを壊していい。人間は殺さない」


 最後の条件までつける。

 返事を待たず、中央の道を進んだ。

 ユエンも、当然のように隣へ並ぶ。


「来ないで」

「それは命令かな」

「あなたには効かないでしょう」

「よく分かってきた」


 シエンは足を止め、男を睨んだ。


「なぜ、効かないの」

「今は答えない」

「……本当に、気に入らない」

「それでも、背中を向ける程度には信用したらしい」


 シエンは前を向く。


「違う。今のあなたなら——刺される前に、気づけるだけ」


 頭上で、巨大な目が細められた。

 門までの道へ、狼と熊の影が集まり始める。

 副頭領は、美姫へ近づきたい。同時に、誰にも近づけたくない。

 ——矛盾した欲望が、そのまま獣の動きに表れていた。


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