第一話 美姫の顔
美姫の仮面を重ねる寸前——シエンの指が、顔を覆う布に触れた。
端は矢で裂けている。それでも結び目は残り、汗と血を吸った布が、火傷痕にべったりと張りついていた。
(この上からじゃ、かぶれない……)
背後で、母親の悲鳴が上がる。
迷っている時間は、なかった。
結び目を引きちぎり、布が足元へ落ちる。
冷たい夜気が、剥き出しの火傷痕を撫でる。
誰かに見られるより先に——美姫の仮面を、自分の顔へ重ねた。
冷たいものが触れると思っていたが、頬を包んだのは、人肌の温もりだった。
姉によく似た、死者の顔。
それが火傷痕に触れた瞬間、仮面の輪郭が、淡く皮膚へ沈んでいった。
「……何?」
痛みは、ない。
締めつけも、息苦しさもない。仮面をかぶっているという感触さえ、みるみる消えていく。
頬に当てた指先の感触は——引きつれた皮膚ではなかった。
なめらかな頬。
閉じきらなかった左の瞼も、今は自然にまばたきをしている。布を外しても欠けたままだった左の視界が明瞭になり、棚の端まではっきり見えた。
それなのに、身体は何ひとつ変わっていない。
脇腹からは血が滲んでいる。肩の矢傷は焼けるように痛み、頭の奥では二度の衝撃が脈打っている。四日間まともに眠っていない疲れも、そのまま手足に沈んでいた。
(顔が変わっても……傷は、治らない)
「これで何かが変わった……の?」
口から出た声も、自分のものだった。
ユエンが、答えない。
シエンは棚の前で立ち尽くす男を見た。
——あれほど、何を見ても表情を変えなかった男が。
初めて、目を見開いていた。
「何よ」
「……顔だけだ」
「見れば分かる」
「そうではない」
ユエンはシエンの黒髪から足元までを、確かめるように見た。
「人物の面は、顔だけを変えるものではない。背丈も、体格も、声も、まとっている気配さえ変わる」
「私は、変わっていない」
「だから驚いている」
ユエンの視線が、シエンの顔へ戻る。
「……変わる必要が、なかったのか?」
独り言に近い声だった。
「どういう意味?」
「今は、外を見たほうがいい」
答えを、避けられた。
問い詰めるより先に、母親の悲鳴がもう一度上がる。
シエンは振り返った。
影の猪が、母子へ牙を向けている。
面屋の境目を、越えた。
祭りの騒音が、壊れた堰から流れ込む水のように押し寄せる。
泣き声。獣の唸り。崩れる屋根。——そして遠くで嗤う、赤衣の男。
影の猪が、地面を蹴った。
「止まりなさい!」
シエンの声が、通りを貫く。
その声はシエンのものであり、また別のものであった。何者をも寄せ付けず、高貴であり、冷酷で妖艶な声色だった。
猪の動きが、目に見えて鈍った。
止まったわけではない。けれどその黒い巨体は、何かを恐れるように震え、牙の向きをわずかに逸らした。
母親が娘を抱いたまま、横へ転がる。
シエンは二人の前へ割り込み、短刀を構えた。
猪の胸で、黒い符が揺れている。
踏み込もうとした瞬間——脇腹に、鋭い痛みが走った。
「っ……」
足が、止まる。
(仮面は力をくれても……身体までは、動かしてくれない)
猪が、再び頭を低くした。
そのとき、横から男が飛び出してきた。
「その方から離れろ!」
祭りの客だった。母親が抱く娘の、父親らしい。手には折れた屋台の棒を握りしめている。
「来ないで!」
シエンが叫ぶ。
男は、足を止めた。
——猪ではなく、シエンを見つめたまま。
「ああ……」
棒が、手から滑り落ちる。
男の目から、恐怖が消えていた。
いや——恐怖だけではない。獣への怯えも、家族を案じる必死さも、その顔から拭い去られていた。
あとに残ったのは、熱に浮かされたような、潤んだ光だけ。
「ああ……なんて……なんて、美しいんだ……」
掠れた声は、祈りに似ていた。
影獣の唸りも、崩れる屋台の音も、もうこの男には届いていない。
世界のすべてが、たったひとつの顔の前で色褪せた——そういう目だった。
その声を聞きつけて、近くにいた残党が振り向いた。
弓を持った男。逃げる住人を蹴り倒していた男。柱を支えていた若者。娘を抱えて走っていた父親。
——振り向いた者から、順に、動かなくなっていく。
殺気が抜け落ちる。握った得物の重さを忘れる。誰もが呼吸すら惜しむように、シエンだけを見つめている。
敵も、味方も、なかった。
月光の下にあるそれは、もはやただの『顔』ではなかった。見た者の心を素手でつかむ、ひとつの現象だった。
「見るな!」
反射的に、顔を隠そうとした。
だが、布はない。
隠すべき火傷痕さえ——もう、指には触れなかった。
残党のひとりが剣を捨て、ふらふらとシエンへ歩き出す。
「俺が守る」
「近づくな」
男は止まった。
命令されたからではない。——言葉をかけてもらえたこと自体がうれしい、という顔だった。
「俺が、あなたを守る」
「ふざけるな! お前みたいな盗賊に触れさせるか!」
先ほどの父親が、残党へ殴りかかった。
残党が剣を拾う。
「お前こそ、その方を見るな!」
別の男も加わった。
(……守ろうとしてるんじゃ、ない)
自分以外の男を、シエンの近くから消そうとしているのだ。
父親の拳が残党の頬を打つ。剣が振り上げられる。
——事態は、力を使う前より悪くなっていた。
「全員、武器を置いて!」
声が、戦場を貫いた。
剣が石畳へ落ちる。弓が落ちる。屋台の棒も、瓦の欠片も——握られていたすべての得物が、一斉に手から離れた。
男たちは、驚いた顔で自分の手を見下ろしている。それでも、逆らう者は一人もいない。
(——嘘、でしょ)
シエン自身が、いちばん驚いていた。
声は、変わっていない。
ただ、その奥に『何か』がいる。聞いた者の意思へそっと指をかけ、静かに引き寄せる何かが。
「互いを傷つけず、その場から動くな」
男たちの足が、止まった。
殴り合っていた二人が、不自然なほど同時に腕を下ろす。赤衣の男の周りにいた残党までもが、門前で膝をついた。
乱戦が——嘘のように、静まり返った。
だが、女たちは動いている。
泣く子供を抱き上げ、崩れた家から家族を引きずり出している。
ひとりの女が、シエンを見た。
その顔に浮かんでいたのは、男たちと同じ熱ではなかった。
——畏れ。
神殿の奥で、見てはいけないものを見てしまったような目。
影の猪も、まだ消えていない。命令に屈したのではなく、シエンの前で怯み、低く唸り続けている。
「『魅了する力』だと言ったわね」
背後のユエンへ、言葉を投げる。
「今の敵には、それで足りると思った」
「ほかには?」
「ダージ本人なら、男女も妖も区別しなかった」
「この仮面は違う?」
「少なくとも、君が使う今の力は違うようだ」
ユエンだけは、いつも通りだった。
見惚れもしない。畏れもしない。
「……あなたには、効かないのね」
「効いてほしいかね?」
「まさか」
信用できない男が、ただ一人だけ正気でいる。
——今は、それが救いだった。
空の巨大な目が、動く。
黒い瞳が、まっすぐシエンを捉えた。
門前で、赤衣の男がゆらりと立ち上がる。魅了に濡れた目のまま、細長い指に挟んだ符を震わせていた。
『その顔は……誰にも渡さない』
黒い目を通して、歪んだ声が街へ降る。
次の瞬間——影獣たちが、一斉に吠えた。




