第六話 仮面をかぶる理由
「……助けられるの?」
シエンが問う。
「私は面屋だ。英雄ではない」
「なら、なんで出てきたの」
「今の君では、届かない」
「届かせる」
立ち上がろうとして——膝が、崩れた。
ユエンは手を貸さなかった。ただ、倒れきる前に、肩だけを支えた。
「四日もまともに眠らず、脇腹の傷は開いた。頭は二度打たれ、肩には矢傷。布で左は見えず、片手は顔を隠すために塞がっている」
「……分かっている」
「分かっていて同じやり方を続けるのは、勇気ではない」
「説教なら、後にして」
熊の前脚が、振り下ろされる。
ユエンはシエンを支えたまま、一歩も動かない。
「あの人たちが死ぬ!」
「——よく、見なさい」
熊の爪が人々へ届く直前。その巨体が、不自然に逸れた。
面屋の前だけを、避けたのだ。
逃げてきた人々も、見えない何かに押し返されたように、この一角の手前で左右へ分かれていく。
熊も。あの黒い目も。——この場所を、認識していない。
「ここへ入れば、少しは時間を稼げる」
「全員は入れない」
「そうだ」
「あなたなら……あの術を、止められないの?」
「止めることは、できるかもしれない」
「なら——」
「だが、しない」
シエンは、ユエンの胸ぐらをつかんでいた。
「人が、死んでいるのよ」
「私は君に面を売るためにここへ来た。君の敵を代わりに倒すためではない」
「……最低ね」
「よく言われる」
腹の底が煮える。
それでも——ユエンの目に、死にゆく者を面白がる色は、なかった。
(助けられないんじゃない。……選ばないんだ、この男は)
その理由を問い詰めている時間は、ない。
「方法を、教えて」
「美姫の仮面」
ユエンは、屋台の奥へ視線を向けた。
「あの面には、人を魅了する力がある。ダージが生きていた時代から、それだけは分かっている」
「……力が及ぶかは、『可能性』の話?」
「君がかぶったとき、その力がどこまで作用するかは保証しない。面が君を受け入れた後に、何が起きるかも——私には分からない」
「売り物でしょう」
「無責任な商売人もいるということだ」
黒い目が、街を巡っている。大鳥が、また次の屋根へ影の羽根を落とした。遠くで、子供が泣いている。
「……あれは、姉に似ている」
「君の姉ではない」
「分かっている!」
声が、大きくなった。
分かっている。数百年前に死んだ女。姉では、ない。
——だからこそ、嫌だった。
姉に似た死者の顔を、道具として使うことが。
その顔に、自分を重ねることが。
そして……顔を隠すためだけに生きてきた自分が、見も知らぬ誰かの『顔』になろうとしていることが。
「別の面は?」
「ない」
「これだけ並んでいるのに?」
「今の君を受け入れ、今の敵へ届く可能性があるのは——あれだけだ」
また、『面が選ぶ』という話。
信じたくない。
だが——美姫の仮面に触れたときの、あの温かさを。指が、覚えている。
——面が、君を嫌っていない。
熊の影が吠えた。
路地から逃げてきた母親が、幼い娘を抱いたまま転ぶ。その背後に、黒い猪が現れた。
母親は娘を胸に抱き込み、自分の身体で覆い隠す。
(——あの砦で見た人たちと、同じ)
捕らわれ、奪われ、傷つけられる理由なんて、何ひとつない。ただそこにいただけの、人々。
シエンの脳裏に、姉の手が浮かんだ。
あの日は、届かなかった。
二度目の故郷も、守れなかった。
(今もまた……見ているだけで、いいの?)
自分の傷を治すためじゃない。美しい顔が欲しいわけでも、姉の代わりにしたいわけでもない。
あの親子を。この街の人々を。これ以上、傷つけさせないために——使う。
「……代金は?」
シエンはユエンを見た。
「半両銭、一枚」
「安すぎる」
「残りは、いずれ受け取る」
「何を?」
「そのときに決める」
(やっぱり、信用できない)
シエンは懐から銭を一枚取り出し、ユエンへ投げた。
「借りるだけよ」
「——客はみんな、最初はそう言う」
ユエンは銭を受け取った。
シエンは面屋へ駆け戻る。人波から一歩外れた瞬間、祭りの喧騒がまた、ふっと遠のいた。
棚には、美姫の仮面が待っている。
姉によく似た——けれど、姉ではない顔。
黒い瞳が、シエンだけを見つめていた。
背後では、影の猪が母子へ迫っている。
迷っている時間は、ない。
シエンは、美姫の仮面へ手を伸ばした。
指先が、その白い頬に触れる。
仮面は——生きているように、温かかった。
シエンはそれを持ち上げ、そして——自分の顔へ、重ねようとした




