第五話 届かない暗殺
正面に猪が二頭。背後に狼。屋根の上には、残党の弓兵。
シエンは布を結び直した。
片目が塞がる。息が苦しい。脇腹からは、まだ血が流れている。
(それでも——敵の位置は、分かる)
猪の影が、同時に突っ込んできた。
一頭目を紙一重でかわす。二頭目の牙が、外套の裾を裂いた。
その勢いのまま身体を回し、背後の狼へ短刀を投げる。
狙うのは獣ではない。——胸の、符。
刃が黒い紙を貫いた。狼が崩れる。短刀が、黒い泥の中から石畳へ転がり落ちた。
かわした一頭目が向きを変え、再び突っ込んでくる。
シエンは牙をぎりぎりまで引きつけ、横へ跳んだ。石畳を転がり、落ちていた短刀を拾い上げる。すれ違いざま、猪の脇腹に浮かぶ符を斬った。
一頭目が、黒い泥となって崩れる。
残る一頭へ向き直った——そのとき。
頭上から、矢が降った。
(——避けきれない!)
矢は肩をかすめ、顔の布の端を、壁へ縫いつけた。
焼けるような痛み。肩口から新しい血が伝う。
顔の布が、強く引かれた。
シエンは咄嗟に手で布を押さえ、そのまま身を引く。布の端が裂け、矢だけが壁に残った。顔を覆う結び目は——まだ、外れていない。
だが、その一瞬。
左から来た猪を、見失った。
巨体が、脇腹へまともにぶつかる。
「ぐっ……!」
地面を転がる。頭の傷が脈打ち、視界が白く弾けた。
猪が、前脚を高く上げる。
踏み潰される直前、シエンは横へ転がった。一瞬前まで自分がいた場所で、石畳が砕ける。
短刀を握ったまま起き上がり、返す刃で符を裂いた。
猪は黒い泥となって崩れ落ちた。
「おい、こっちだ!」
先ほどの少年の父親らしき男が、路地の奥から必死に手招きしている。
シエンは足元の割れた瓦を弓兵めがけて蹴り上げ、その隙に路地へ滑り込んだ。
男が、子供をきつく抱きしめている。
「助かった……! あんたも早く逃げろ!」
「門は塞がれている」
「に、西の小門がある。だが、あっちにも化け物が——」
「家の中へ。窓から離れて」
シエンは再び、通りへ目を走らせる。
(赤衣の男までは、屋根伝いなら近づける。でも——)
黒い目が、すべてを見ている。
右の屋根へ上がれば、鳥が進路を塞ぐ。左の路地へ入れば、残党が住人を盾に待ち構えている。中央を行けば、あの熊の影。
(……街道の連中とは、格が違う。この男は、私の戦い方を理解してる)
近づかせないための、完璧な配置だった。
『その場で武器を捨てろ!』
副頭領の声が響く。
『帳面を地面に置け! そうすれば、街の者は助けてやる!』
住人たちの視線が、布で顔を隠したシエンへ、一斉に集まった。
恐怖。疑い。すがるような目。
顔を見られているわけではない。それでも——息が、浅くなっていく。
「……嘘ね」
シエンは、門前の男をまっすぐ見据えた。
「私と帳面を手に入れた後、目撃者を生かしておく理由がない」
副頭領が、嗤った。
『賢い女は嫌いだよ』
その指が、一本。——下がった。
大鳥の影が旋回し、民家の屋根へ黒い羽根を落とす。
木材が見る間に腐り、屋根が傾いだ。中から悲鳴が上がる。
シエンは走った。倒れかけた柱へ、肩を差し入れる。
「裏から出て!」
家族が転がるように逃げ出していく。最後の老婆が敷居を越えた瞬間、柱を離した。
背後で屋根が崩れ落ち、粉塵が舞う。
膝が、震えていた。四日分の疲労が、一気に噴き出したようだった。息が続かない。
(小さな救出なら、できる。符も、一枚ずつなら破れる。でも——)
その間にも、別の場所で獣が人を襲う。
術者へ届かなければ、終わらない。
逃げれば、自分だけは助かるかもしれない。投降すれば、少しは時間を稼げるかもしれない。
——どちらを選んでも、この街の人々は殺される。
地面に落ちた黒い影が、シエンの足首へ絡みついた。
門前の熊が、ゆっくりと動き出す。
巨大な前脚が、逃げ遅れた人々の背へ振り下ろされようと——。
「そこまでだ」
喧騒の中で、不思議なほどよく通る声がした。
振り返る。
面屋と人波の境目に——ユエンが、立っていた。




