第四話 影獣
闇の中で、悲鳴が上がった。
笛の音も、太鼓の音も止まっていく。
店の外へ目を向けると、軒から軒へ渡された無数の灯籠が——端から順に、黒く染まっていくところだった。
火が消えたのではない。
黒い『影』に、炎ごと呑み込まれている。
人々が出口へ殺到する。
だが門の前には、巨大な獣の影が立ち塞がっていた。
熊——に、似ている。四つ足のままでも門より高い。首には、黒い符が貼りついている。その巨体は地面に落ちた影と繋がり、輪郭が煙のように揺らめいていた。
熊だけではなかった。
屋根の上には狼。路地には猪。空には、翼を広げた大鳥。
どの影にも、黒い符が埋め込まれている。
風に乗って、新しい血と、何日も経った腐敗の臭いが漂ってきた。
(死骸を媒介にする符術……)
暗殺者として、そうした術があることは知っていた。
これだけの獣と符を、一夜で揃えられるはずがない。
シエンが砦を襲ってからの四日間、残党はただ彼女を探していたのではない。散った仲間を集めながら、獣の死骸と黒い符を用意し、何かを仕込んでいた。
その答えが、いま街を塞ぐ獣の影だった。
空中で、黒煙が渦を巻いて集まり始める。
みるみる巨大な『目』となり、祭りの街を見下ろした。
街道で見た、あの目と同じ。
巨大な瞳がゆっくりと動き、逃げ惑う人波を、ひとりずつなぞっていく。
——探している。
シエンを。
『髑髏の女に告ぐ!』
赤衣の男の声が、街中に響き渡った。
『兄を殺し、我らの帳面を盗んだ女! 今すぐ門前へ出てこい!』
人々が、呆然と顔を見合わせる。
『女と帳面を差し出せ! 隠し立てするなら——この街の灯が二度と点かぬようにしてやる!』
黒い大鳥が、大きく翼を打った。
影の羽根が通りへ降り注ぎ、触れた屋台の屋根が、音もなく黒く腐り落ちていく。
悲鳴。逃げ惑う人々。倒れる露店。
「……あなたの予想、当たったわね」
シエンは帳面をしまい、美姫の仮面をいったん棚へ置いた。
「嬉しくはないがね」
「ここにいれば、見つからない?」
「おそらく」
「曖昧ね」
「試したことがない」
「なら——外へ出る」
「君が出れば終わると、本気で思うか?」
ユエンの声が背中へ届く。
シエンは、足を止めなかった。
「終わらせる」
人波の中へ戻った瞬間、堰を切ったように音が押し寄せた。
泣き声。怒鳴り声。砕ける屋台。獣の唸り。
シエンは顔の布を押さえ、素早く周囲を観察する。
面屋があるのは、門へまっすぐ延びる主街路の中ほど。道の両側には細い路地が走り、軒の低い屋根が連なっている。
主街路の先——門前に、赤い衣の男。周囲には残党が十数人。
男自身は、一歩も動いていない。両手の指に黒い符を挟み、足元から伸びた影が、街中の獣たちへ蜘蛛の巣のように繋がっている。
(距離が遠い。正面からじゃ、届かない。……屋根を使う)
そう決めた矢先、すぐ横の路地から悲鳴が上がった。
狼の影が——転んだ少年に、飛びかかろうとしている。
考えるより先に、シエンは走っていた。
脇腹が裂けるように痛む。構わず少年の襟をつかんで引き寄せる。狼の爪が、一瞬前まで少年のいた空間を切り裂いた。
「母親は?」
少年は泣きながら、通りの先を指差す。
「走って。振り返らないで」
「お、お姉ちゃんは?」
「早く!」
少年が駆け出す。
狼が追おうと向きを変えた。その首筋へ、短刀を突き立てる。
——手応えが、ない。
刃は、影をすり抜けた。
(実体が、ない……!?)
狼の胸元で、黒い符が揺れている。
シエンは咄嗟に刃先を返し、符だけを裂いた。
獣の影が大きく震える。
一瞬——皮を剥がされた狼の死骸が、確かに見えた。
次の瞬間には黒い泥と化し、地面へ崩れ落ちる。
「やはり、死んだ獣を……符で、影に……」
胸の奥が、すっと冷えた。
頭上で、黒い目が動く。
巨大な瞳が——シエンを、捉えた。
『見つけたぞ、髑髏の女!』
「……今は布よ」
小さく訂正する。
同時に、左右の路地から、猪の影が二頭飛び出してきた。




