第三話 姉に似た顔
白い肌。
細く長い眉。
黒い瞳。
やわらかな弧を描く唇。
シエンの記憶の中で——ただの一度も色褪せなかった、あの顔。
「……姉、さん……?」
手が、勝手に伸びていた。
指先が触れる寸前、はっと我に返る。棚から面を奪うように取り、ユエンへ向き直った。
「なぜ——姉の顔を、持っている」
「それは君の姉ではない」
「嘘をつくな!」
短刀が鞘走る。今度は刃先が、ユエンの喉へ確かに触れた。
それでも、男の表情は変わらない。
「名前は、ダージ」
「姉の名はシヨウよ」
「だから、違うと言っている」
「どこで会った」
「——数百年ほど、前だ」
怒りが、一瞬だけ止まった。
「……何?」
「その顔の持ち主は、美姫ダージ。イン・ティクオの皇帝を惑わせ、国を傾けた女だ」
「数百年も前の女の顔が、どうしてここにあるの」
「面だからだ」
「——真面目に、答えて」
「答えたくないことも、ある」
ユエンの声から、それまでの軽さが消えていた。
シエンは、手の中の面を見下ろす。
姉ではない。そう言われても、信じがたいほど似ていた。
シヨウが連れ去られたのは十一年前。数百年も前の女であるはずがない。
(でも……姉さんがもう少し大人になったら、きっと、こんな顔に——)
「『会った』と言ったわね」
「言った」
「あなたは、幾つよ」
「歳を数えるのは、ずいぶん前にやめた」
「……人間では、ないの?」
ユエンは答えない。
その沈黙もまた、嘘には見えなかった。
「この仮面を、どうやって作った」
「それも答えない」
「本人は、どうしたの」
「もういない」
短い返事だった。
懐かしむ声でも、悼む声でもない。——長い長い時間を燻り続けた、冷たい怒りのように聞こえた。
「死んだの?」
「その問いには、『はい』と答えよう」
シエンはユエンの喉から刃を離し、短刀を鞘へ戻した。
面の黒い瞳が、シエンを見返している。
姉に似た、傾国の美姫。商品として棚に並べられた、誰かの顔。
吐き気がした。
——それなのに、手放せなかった。
「返してくれないか」
「嫌よ」
「君の姉ではない」
「それを確かめるまでは、渡さない」
「何を確かめる?」
「全部」
ユエンが初めて、困ったように眉を下げた。
だがその視線はシエンではなく——シエンの手の中の仮面へ向けられている。
そして仮面のほうもまた、シエンの指へ吸いつくように馴染んでいた。冷たいはずの面が、触れた場所だけ、ほのかに温かい。
「……妙だな」
「何が?」
「いや」
ユエンはすぐに表情を消した。
「今、何を見たの」
「面が、君を嫌っていない」
「物に好き嫌いはない——そう言ったでしょう」
「それを言ったのは君だ」
シエンは仮面を棚へ戻さなかった。
(姉に似た顔。……偶然にしては、重なりすぎている。この男が何者なのか——試す価値は、ある)
代わりに外套の内側から、油紙に包んだ帳面を取り出す。
「これを、知っている?」
すべては見せない。最後の頁だけを開き、九つの影の印を指で半分隠しながら、ちらりと覗かせる。
ユエンの目が、止まった。
顔色は変わらない。けれど、呼吸がほんの一拍だけ——遅れた。
「……どこで手に入れた」
「知っているのね」
「先に答えなさい」
「『信用と取引は別物』なのでしょう?」
先ほどの言葉をそのまま返すと、ユエンが目を細めた。
「九影大盗賊団」
「ジュイン・ダオゼイトゥワ」
「発音まで知っているなら、私に訊く必要はないだろう」
「印が似ているだけかもしれない。断定できる材料が欲しいの」
「それは連中が取引に使う印だ。……だが、その帳面だけでは、相手の居場所までは分からない」
「姉を連れ去った奴らよ」
ユエンの視線が、シエンの手にある美姫の仮面へ、もう一度戻った。
「なるほど」
「何が『なるほど』なの」
「まだ、何も」
「あなたは、九影の何を知っている?」
「——連中の上に、『銀狐』と呼ばれる者がいる」
銀狐。
その一言だけ、ユエンの声は氷のように冷たかった。
「会ったことが、あるの?」
「探している」
「理由は?」
「盗まれた物を、返してもらうためだ」
「何を盗まれたの」
ユエンは——何もない空間を撫でるように、自分の頬へそっと触れた。
「答えたくないことも、ある」
また、同じ言葉。
だが今度のそれは、はぐらかしではなかった。シエンには分かった。
銀狐という名を口にした瞬間、この男の顔から、あの年齢の曖昧さが消えていた。
——何百年も、憎み続けた者の顔になっていた。
(ユエンは、九影と無関係じゃない)
美姫の仮面も。姉と似ている理由も。
すべてが、同じ一つの謎に繋がっている。
「この面は渡さない」
「まだ売っていない」
「なら、買う」
「君には、危険かもしれない」
「私が決める」
「——そう言うと、思ったよ」
ユエンが何かを続けようとした、そのときだった。
祭りの灯が。
一斉に、消えた。




