第39話 いただきますのフーガ
オフ会の翌日、三人ではなれに集まった。
片付けの続き。昨日の夜にゴミ袋は縛ったけど、シンクの中にグラスがまだ残っていた。カウンターの隅に醤油の染みが乾いている。床に張り付いたビールの跡を、澪が雑巾で擦っていた。
さつきが窓を開けた。冬の空気が入ってきた。昨日の匂い——にんにくと出汁と油が混ざった匂いが、少しだけ薄くなった。
俺はゴミ袋を外に出した。三つ。玄関の横に並べた。
カウンターに戻って、電卓を出した。
レシートが何枚かあった。食材費。酒。消耗品。交通費はプロボックスのレンタル代と高速代。澪が財布からレシートを出した。大名古屋食品卸センターと魚太郎のレシートが二枚。
さつきもレシートを出した。業務スーパーとカルディ。
全部並べた。電卓を叩いた。
「三人で割ると」
俺が言った。
「端数は晃が払えよ」
さつきが言った。
「なんで」
「電卓持ってるから」
笑った。大した額じゃなかった。大成功でもない。赤字でもない。カマはほぼ食べた。
レシートをまとめて、クリアファイルに入れた。このクリアファイルは、はなれを借り始めた頃から使っている。レシートが増えていた。最初の頃は食材費だけだった。今は交通費と消耗品と、レンタル代が入っている。
澪がポケットから封筒を出した。
「これ」
白い封筒。表に何も書いていない。
開けた。翌月分の家賃の明細が入っていた。
三人で見た。金額は、見た。声には出さなかった。
「……いけるか」
俺が言った。
「ギリでしょ」
澪が言った。
「ギリはギリじゃないって、前に言ったの澪じゃん」
さつきが笑った。
澪が一拍止まった。
「——まあ」
そこで止まった。続きは言わなかった。
でも、封筒をクリアファイルに入れた。レシートの束の上に、家賃の明細が重なった。
誰も「やめよう」とは言わなかった。誰も「続けよう」とも言わなかった。封筒がクリアファイルに入った。それで決まった。
窓から入る風が冷たかった。さつきが窓を閉めた。
*
数週間が経った。
動画は二本上げた。オフ会の翌週に一本、その次の週にもう一本。オフ会のことには触れなかった。普通の撮影を、普通にやった。もつ鍋の回と、鰯の梅しそフライの回。
コメント欄に「オフ会最高でした」が何件か来ていた。「次いつですか」も。さつきが全部に返信していた。澪は読んでいたかもしれないし、読んでいなかったかもしれない。俺は読んだ。返信はしなかった。
大学の講義は続いていた。レポートを書いて、出して、次のレポートの課題が出た。学食でカレーを食べた。澪が図書館にいるのを見かけた。声はかけなかった。向こうも気づいていなかった。
普通の日が続いていた。
*
夜。
はなれに三人がいた。
撮影ではなかった。企画会議、というほど大げさなものでもなかった。ただ集まった。
電球が一個ついていた。カウンターの上だけが明るくて、壁の方は暗かった。カウンターの木目が浮かんでいた。傷がある。包丁の跡がいくつかついている。澪の包丁だった。
マグカップが三つ、カウンターの上にあった。
前からここにあったインスタントコーヒー用のマグじゃなかった。ちゃんとしたマグだった。いつ買ったのかは知らない。たぶんさつきだった。三つとも同じ形で、色だけ違った。白と、紺と、灰色。
さつきが紺のマグにコーヒーを注いだ。澪が白のマグに湯を入れて、ほうじ茶のティーバッグを入れた。俺は灰色のマグを取った。コーヒーを入れた。
三つの湯気が上がった。
「次、どうする?」
俺が言った。
さつきがマグを持ったまま、少し考えた。
「冬メニュー考えようか」
「回転率も考えないと」
澪が言った。
企画会議が始まった。
と言っても、ホワイトボードがあるわけでもない。ノートを出したのは俺だけだった。さつきはスマホのメモに打っている。澪は何も出していない。頭の中にある。
「鍋系はもう一回やりたい。もつ鍋じゃなくて、別のやつ」
さつきが言った。
「水炊きか、キムチ鍋か」
「水炊きがいい。出汁の味がわかるやつ」
さつきが澪を見た。
「鶏がらだけで引くなら、四時間は欲しい」
澪が答えた。
「四時間……」
「二十二時に間に合わせるなら、十八時に火入れ」
さつきが計算している。澪がもう答えを出していた。
「当日じゃ無理でしょ。前日から仕込む」
「また朝五時に来る気?」
さつきの声に、少しだけ棘があった。少しだけ。
澪がほうじ茶を一口飲んだ。
「前日の昼に仕込めば間に合う」
「……それならいい」
さつきが頷いた。澪の口元が少しだけ緩んだ。ほんの少しだけ。
俺はノートに「水炊き 前日昼仕込み」と書いた。
「あと、パスタもう一回やりたい。オフ会の時のアマトリチャーナ、評判よかった」
「グアンチャーレで作る? パンチェッタで?」
「グアンチャーレ。本式で」
「高いけど」
「——それは、収益と相談でしょ」
澪が言った。
三人で黙った。収益と相談。その言葉の重さが、一瞬だけカウンターの上に置かれた。
「……まあ、やれるならやろう」
俺が言った。
「やろう」
さつきが言った。
澪はほうじ茶を飲んでいた。何も言わなかった。でも否定もしなかった。
ノートに「アマトリチャーナ グアンチャーレ」と書いた。
話は続いた。冬の魚の話。根菜の話。撮影スケジュールの話。二十二時までにどこまでできるか。前日仕込みと当日調理の切り分け。
言い合いではなかった。誰も声を荒げなかった。意見が割れたら、黙って、考えて、落としどころを見つけた。さつきが出して、澪が削って、俺が書いた。
一時間くらい経った。
マグの中身が減っていた。俺のコーヒーはぬるくなっていた。さつきの紺のマグは空だった。澪のほうじ茶は半分残っていた。
話が途切れた。自然に途切れた。
ここにいたかった。
はなれの中が静かだった。換気扇は止まっている。壁の時計の秒針だけが動いていた。
窓の外は暗い。飯田街道を走る車のヘッドライトが、たまにカウンターの上を横切った。
電球一個の光の下に、三つのマグがあった。
湯気はもう出ていなかった。コーヒーもほうじ茶も冷めていた。
さつきが立ち上がった。
「入れ直す」
ケトルに水を入れて、火にかけた。沸く間、誰も何も言わなかった。
沸いた。さつきが三つのマグにそれぞれ注いだ。紺のマグにコーヒー。灰色のマグにもコーヒー。白のマグに湯を入れて、新しいティーバッグを出そうとして、澪が「同じのでいい」と言った。
三つのマグから、また湯気が上がった。
白い湯気が、少しずつ違う形で立ち上っていた。コーヒーの湯気はまっすぐ上がって、途中で崩れた。ほうじ茶の湯気は低く、横に広がった。俺のコーヒーの湯気は、二つの間で揺れていた。
三つとも同じ方向には上がっていなかった。でも、同じ空間の中にあった。
誰も急いでいなかった。誰も焦っていなかった。誰も神を目指していなかった。
ただ、次の冬を考えていた。
なんとなく、このままここにいたかった。




