第38話 オフ会
前の夜のことは、あまり覚えていない。
仕込みの音だけが続いていた。包丁の音、氷を足す音、出汁の蓋が持ち上がる小さな呼吸。さつきが皿の配置を三回変えた。俺は米を研いでいた。五合炊き二台分。冷たい水の中で米が白く濁って、流して、もう一回研いだ。
「明日、楽しみだな」
さつきが言った。窓の外は暗かった。
「うん」
澪は出汁の鍋の蓋を確認していた。何か言いかけた気がした。でも鍋に視線を戻して、火加減を少しだけ絞った。それだけだった。
*
当日。
澪からのトークが朝の六時に届いていた。
『大名古屋、着いた。サーモンいいの残ってる。さつきの分も買う』
六時。俺はまだ布団の中にいた。
七時に二通目。
『生本鮪、あった。卸値で出してくれた。あと鰯。梅しそフライ用』
九時に三通目。写真だけ。魚太郎本店の発泡スチロールが四つ並んでいた。天然鯛、とろさば開き、天然平目。蓋の隙間から氷の粒が見えた。次の写真はプロボックスの荷室。発泡スチロールが積まれている。白い。冷たそうだった。
俺は十時に起きた。
十一時に会場に着いた時、澪はもう魚を並べ終えていた。カウンターの上に氷を敷いて、ステンレスのバットを三つ並べている。鯛の目がまだ澄んでいた。発泡スチロールの蓋が壁際に積んである。床に溶けた氷の跡が点々と続いている。
「仮眠した方がいいんじゃない?」
さつきが言った。十一時前に来ていたらしい。白い平皿が八枚、大きめの丸皿が四枚、もう並んでいた。カウンターの端にバゲットが紙袋ごと置いてあった。
「昨日は早く寝たから」
「何時に?」
「……七時とか」
さつきが俺を見た。俺もさつきを見た。七時。夜の七時に寝て、朝の五時前に起きて、六時に大名古屋食品卸センターにいた。九時に知多半島の魚太郎。十一時にここ。
すでに五時間動いている。
澪は平目の柵を引いていた。薄い、均一な切り身が並んでいく。会話はもう終わっていた。
*
仕込みが始まった。
澪がカウンターの中にいる。鯛のうろこを引く音が、はなれの天井に当たって低く返ってくる。鱗が飛ぶ。シンクの中に散らばった鱗が光っている。
さつきがガスコンロの前に立った。アヒージョ用のオリーブオイルを小鍋に入れる。にんにくを四片、皮ごとまな板に置いて、包丁の腹で叩いた。低い音。皮を剥いて、二つに割って、芯を取る。芯を取らないと苦みが出る。さつきはそれを説明しない。手が知っている。
俺は唐揚げの下味をつけていた。鶏もも肉を一口大に切る。生姜をすりおろす。にんにくも。醤油と酒を合わせて、揉み込む。三キロ分。手が冷たい。指の間に醤油が入った。
もつ鍋のスープは昨日から仕込んである。鶏がらと豚骨を四時間炊いて、灰汁を引いて、白味噌を溶いた。ぶり大根は一昨日から煮ている。蓋を開けると、出汁と醤油と大根の匂いが混ざって、はなれの中に広がった。大根が飴色になっている。冷たいまま味が入っている。
澪が鰯の頭を落としていた。梅しそフライ用。頭を落として、腹を割いて、内臓を出す。開いて、中骨を外す。骨をピンセットで一本ずつ抜く。十二尾分。同じ速度で、手が止まらない。梅肉を塗って、大葉を挟んで、開いた身で閉じる。
「ほっけ、何時に焼く?」
「客が来てから。焼きたてじゃないと意味ない」
さつきが皿の配置をまた変えた。四回目。
「これ、光の入り方考えると手前の方がいい」
客に出す皿の位置を、光で決めている。撮影じゃない。オフ会だ。でもさつきの目は撮影の時と同じだった。
十四時。開始まで三時間。
テーブルの上に酒が並んでいた。スーパードライが一ケース。いいちこ、黒霧島、白岳しろ。長野の純米酒が二種類。角ハイボール。カシスオレンジ。レモンサワー。ウーロンハイ。ソフトドリンクの段ボールが一箱。
澪が選んだ焼酎が三本、ラベルを揃えて並んでいた。
「麦、芋、米。網羅してるじゃん」
さつきが笑った。
「飲む人の好みがわからないから」
大学生がオフ会の酒を三系統揃えている。
*
十七時。
最初の客が来た。
男の人だった。二十代後半くらい。紙袋に缶ビールが二本入っていた。
「あの、自炊研究会の……」
「はい」
さつきが出た。エプロンのまま。
「飲酒した状態で来ちゃったんですけど」
さつきが一拍置いて、笑った。
「優勝です」
スーパードライを一本渡して、乾杯した。一人目が笑った。はなれの引き戸がまだ開いていた。
そこから止まらなかった。
二人目、三人目。ワインのボトルを持ってきた女の人がいた。「どこに置いたらいいですか」。「どこでも!」。日本酒の四合瓶を二本持ってきた男の人がいた。「冷やしてありますか」。さつきが冷蔵庫の扉を開けて「入ります!」と叫んだ。カウンターの中から。
五人を超えたあたりで数えるのをやめた。
靴が玄関に並びきらなくなった。誰かがサンダルを外の段差に出した。その横にスニーカー。革靴。ブーツ。段差の下にも。段差の横にも。
席順はない。カウンターの前に立つ人がいた。壁際の床にそのまま座り始める人がいた。折り畳みテーブルを二つ出したけど、足りない。スーパードライのケースを裏返して、その上にコップを置いた人がいた。段ボールが卓になった。
缶を開ける音があちこちで鳴った。グラスがぶつかる音。笑い声。知らない人同士が「何飲んでます?」と聞いている。
はなれの中が、声と匂いと人で埋まっていった。
*
唐揚げを揚げ始めた。
百七十度。鶏肉を入れる。泡が細かくなるまで待つ。三分。引き上げて、バットに並べた。二分休ませる。百九十度に上げて戻す。一分半。衣の色がきつね色を超える直前で引き上げた。油を切った。
最初の一皿を出した。
カウンターの前にいた女の人が一個つまんで、噛んだ。衣が割れる音がした。中から鶏の汁が出た。
「え——なにこれ」
もう一個つまんだ。噛みながら隣の人の腕を叩いた。
「ちょっと、食べて。食べて食べて」
隣の人が一個つまんだ。噛んだ。二人で顔を見合わせた。「え」「ね」。それだけで通じていた。
三個目に手が伸びかけて、「他の人の分……」と一瞬止まって、結局つまんだ。
二皿目を揚げている間に、一皿目が消えていた。三皿目が出た瞬間に手が伸びた。四本。同時に。
「唐揚げおかわりいつですか!」
奥の床に座っている人から声が飛んだ。まだ揚げてる最中だ。
「今揚げてます!」
俺が返した。笑いが起きた。
揚げながら、油の温度を見た。百九十二度。少し高い。鶏肉の量が減ったから、温度が下がりにくくなっている。火を少し絞った。
さつきのアヒージョが出た。えびとマッシュルームがオリーブオイルの中で泳いでいる。にんにくの匂いがはなれを支配した。バゲットを斜めに切って添えた。
バゲットにオイルを吸わせて食べた人が、目を閉じた。しばらく開けなかった。開けて、もう一切れバゲットを取って、今度はえびと一緒に載せた。
シーザーサラダ。さつきがアンチョビを包丁で叩いてペースト状にして、パルミジャーノを削って混ぜている。温泉卵を割って載せた。黄身が崩れて葉の上を流れた。
「待って待って、このドレッシング手作りですか?」
「そうですけど」
「ちょっと待って!?」
さつきが笑った。客の方を向いたまま、手はもう次の皿を用意していた。目が笑っているのに、手は止まらない。
もつ鍋をカセットコンロに載せた。白味噌ベースのスープが沸いて、もつとキャベツとニラが浮かんでくる。にんにくスライスと鷹の爪。匂いが変わった。
「もつ鍋もあるの!?」
「あります!」
「え、居酒屋じゃん」
居酒屋だ。メニュー表がないだけの、居酒屋。
豚キムチを炒めた。ピリ辛たたききゅうりを出した。味噌汁の鍋を火にかけた。出汁は澪が引いたもの。具はわかめと豆腐。普通の味噌汁。出汁だけが普通じゃない。
客が「次なんですか」と聞くたびに、「わかりません」と答えた。本当にわからなかった。手が空いた順に、冷蔵庫の中身を見て、次を決めている。
客がスマホで動画を撮っていた。カウンターの中を覗き込んで撮っている人が四人。さつきが気づいて、カメラに向かってピースした。
「撮っていいですか!」
「どうぞ!」
さつきの返事が速い。いつものさつきだった。カメラがあると一段上がる。
出しているものの精度がおかしいことに、客の方が先に気づいていた。唐揚げの二度揚げの温度管理を秒で見ている。もつ鍋のスープは前日から四時間炊いている。ぶり大根は前々日から仕込んでいる。鶏皮の下処理に四十分かけている。
俺たちはいつも通りだった。はなれで撮影する時と同じことを、客の前でやっているだけだった。
*
澪がカウンターの内側で刺身を引き始めた。
おまかせ盛り。天然鯛、平目、サーモン、生本鮪。柵から引いていく。包丁が入る角度が一定で、引く速度が変わらない。大葉を敷いて、つまを置いて、放射状に並べた。鯛の白、平目の透明、サーモンの橙、鮪の赤。
出した。
最初に食べた人の箸が止まった。三秒くらい、何も言わなかった。
隣の人が「どうした」と聞いた。答えなかった。もう一切れ取って、隣の人に差し出した。「いいから食べて」。
食べた。
「……なにこれ」
「わかんない。うまい」
「いや、これ——」
言葉が見つからないまま、三切れ目に手を伸ばしていた。その周りの人が同時に手を出した。刺身盛りが三十秒で半分になった。
奥の方で、さっきの刺身を食べた人が立ち上がって、床に座っている友達のところに歩いていった。自分の皿から一切れ取って、差し出した。「これ、食え」。友達が食べた。「え」。立ち上がった。二人でカウンターに向かって歩いてきた。
さつきが澪の引いた寒ぶりの柵を受け取った。カルパッチョにする。薄く切って白い皿に並べた。オリーブオイルとレモンと塩。ケッパーを散らして、ピンクペッパーを挽いた。
同じ寒ぶり。澪は刺身に引いた。さつきはカルパッチョに仕立てた。刺身は醤油とわさびで脂の甘さが立つ。カルパッチョはレモンの酸味で脂が軽くなる。同じ脂が、和と洋で別の料理になった。
客がどちらも食べた。皿を交互に見た。
「同じ魚……?」
「同じぶりです」
さつきが答えた。
「——待って、これ同じ魚で二品出すの? この二人で?」
「そうですけど」
その人は何か言おうとして、口を開けたまま、カルパッチョをもう一切れ食べた。言葉の代わりに食べていた。
さつきが声を上げて笑った。澪は次の柵を引いている。顔を上げなかった。でも口の端がほんの少しだけ動いた気がした。
*
澪がカウンターに天然ぶりの半身を出した。
客が集まった。カウンターの前が埋まった。スマホが六つ七つ光った。
澪がおろし始めた。
三人だけのはなれで寒ぶりをおろした時と、手の動きは同じだった。速度も、刃の角度も。
違うのは、周りに人がいることだった。
「ここから柵取る」
澪が言った。声の大きさは変わっていない。仲間に話すのと同じ声量。でも客にも向いていた。
「しゃぶしゃぶ用は薄めに引く。厚いと脂が出切る前に冷める」
客が息を止めていた。包丁が骨に当たる音がした。
さつきが横から覗いた。「ねえ、この脂——ちょっと待って、すごくない?」
澪が乗った。「腹側。来て。ここ、繊維が変わるの見える? この線で柵取ると、口の中で溶ける方向が変わる」
手と口が同時に動いている。包丁の速度が上がっていた。説明しながら、刃の精度が落ちていない。むしろ上がっている。見せたい相手がいると、手が応える。澪の身体がそうできている。
客に向かって喋っているのか、さつきに向かって喋っているのか。たぶん本人も区別していない。
「……骨に沿って、こう。ここ、包丁を浮かせる。押すと身が潰れるから」
カウンターの向こうで、スマホを持っていた手が下がった。撮るのを忘れて見ている。
澪は気づいていない。次の柵に刃を入れていた。
俺とさつきだけが知っている。今、この人のテンションは普段と全然違う。
酔った客がカウンターの中に一歩入った。「もっと近くで見たい」。悪意はない。
澪が無言で出刃を置いた。まな板の上に、刃が上を向いたまま。静かに。
客が一歩下がった。
笑いが爆発した。澪は笑わなかった。出刃を取り上げて、次の柵に刃を入れた。手が止まらなかった。
*
料理が足りなくなった。
二十人くらいだと思っていた。三十人近くいた。
刺身が追いつかない。唐揚げの鶏肉が残り一パック。もつ鍋のもつが足りない。炊飯器の蓋を開けたら空だった。
三人が顔を見合わせた。一秒。
「……追加で炊く?」
「炊く」
炊飯器に米を入れて、研いで、水を入れて、スイッチを押した。三十分。それまで繋ぐ。
さつきがペペロンチーノを茹で始めた。にんにくとオリーブオイルと鷹の爪。茹で汁を合わせて乳化させる。メニューになかったアマトリチャーナも追加で始めた。トマト缶を開けて、パンチェッタを刻んだ。
「パスタもあるの!?」
「今できました!」
さつきが皿を出した。ペペロンチーノの上にパセリを散らしている。追加メニューなのに、盛り付けの精度が落ちていなかった。むしろオフ会の最初に出したアヒージョより、手が速くなっている。
澪が残りの魚で刺身盛りを組み直した。品数は減った。でも一切れずつの厚さは変わっていない。三皿目に入ってもなお、包丁の角度が揃っている。
俺はもつ鍋に豆腐とキャベツを追加した。もつが足りない分を補う。スープの味は変わらない。
足りない。でも止まらない。目が合って、頷いて、手が動く。打ち合わせはない。
客が見ていた。足りなくなっていることに気づいている人もいた。でも誰も文句を言わなかった。三人がカウンターの中で動いているのを、ずっと見ていた。
見ていた、というより、巻き込まれていた。足りないとわかった瞬間に、客の一人が自分のグラスを下げてシンクに持ってきた。「洗いましょうか」。澪が「いい」と言った。短かった。でも断る声は柔らかかった。
*
ほっけを焼いた。網の上で皮が膨らんでいく。脂が落ちて、煙が上がった。
ぶり大根を温め直して出した。箸を入れると崩れた。出汁が染みた大根を食べた客が、黙って二切れ目に手を伸ばした。三切れ目を取って、隣の席に持っていった。知らない人に「これ食べて」と差し出した。
天然ぶりのしゃぶしゃぶ。カセットコンロに土鍋を置いて、昆布出汁を張った。薄切りの寒ぶりを客が自分で取って、出汁にくぐらせる。三秒。脂が溶けて出汁が白く濁る。ポン酢。
「やばい。やばいやばいやばい」
しゃぶしゃぶを食べた男の人が、目を閉じたまま三回言った。隣の人が笑って、自分もぶりを出汁にくぐらせた。食べた。黙った。目を閉じた。
「……やばい」
「だろ」
二人で笑った。笑いながらもう一枚取った。
はなれの中が、声と笑いと湯気と匂いで飽和していた。
秩序は壊れていた。段ボールが卓になり、知らない人同士が食べ物を差し出し合い、カウンターの内と外の境界が曖昧になっている。でも料理だけは壊れていなかった。唐揚げの衣はカリカリで、刺身の厚さは揃っていて、出汁の味は最初の一杯と変わらなかった。
誰かが言った。
「三人だから好きなんです」
さっき唐揚げを食べて言葉が出なかった女の人だった。少し酔っていた。でも目が真っ直ぐだった。
さつきが「ありがとうございます」と言った。嬉しそうだった。隠していなかった。
澪は刺身を引く手を止めなかった。でも包丁の速度が一瞬だけ変わった気がした。気のせいかもしれない。
俺は何も言わなかった。言葉にすると、今ここにあるものが何か減る気がした。
*
終盤。
酔った客が「なんか〆ほしい」と言った。
さつきのパスタは全部出た。もつ鍋のスープは残っているけど、具がない。
俺は黙っておにぎりを握り始めた。
さっき追加で炊いた米がまだ温かかった。手を濡らして、塩をつけた。握った。三角形じゃない。丸い、不格好なおにぎり。中身は入れない。塩だけ。
皿に並べた。八個。
「なんとなく、多めに炊いといた」
計算してない。でも米はちょうど足りた。
客がおにぎりを一個ずつ取った。塩だけのおにぎりと、わかめと豆腐の味噌汁。
「ごちそうさまでした」
誰かが言った。
つられて、二人、三人。「ごちそうさまでした」が重なった。はなれの天井に当たって、ゆっくり落ちてきた。
*
客が帰り始めた。
「ありがとうございました」。靴を履く音。引き戸が開いて、冬の夜の空気が入ってきた。
「また来ます」
「次いつですか」
「次いつですか」
「絶対また来ます。次も絶対行きます」
笑って「まだ決まってないです」と答えた。三回目。四回目。
最後の一人が「お疲れさまでした」と言って、引き戸が閉まった。
はなれの中が急に広くなった。
三十人近くいた空間に、皿と空き缶とグラスだけが残っている。壁際のテーブルに醤油の染みがついていた。床にビールがこぼれている。ワインの空瓶が一本立っていた。段ボールの卓の上にコップが三つ残っていた。
三人だけになった。
さつきが壁に背をつけて、ずるずると半分だけしゃがんだ。
「……疲れた」
笑いながら言った。まだ笑っていた。
澪がコップに水を入れて、一口で半分飲んだ。コップを置いた。
片付けを始めた。
皿を集めた。グラスをシンクに運んだ。空き缶を拾って、袋に入れた。金属の音が響いた。
カウンターの上に、寒ぶりのカマが残っていた。
二つ。塩を振ってグリルで焼いて出す予定だった。刺身としゃぶしゃぶとカルパッチョに追われて、カマまで手が回らなかった。
「どうする?」
さつきが聞いた。
「食べよう」
俺が言った。
澪がグリルの火をつけた。カマに塩を振って、網に載せた。
焼けるのを待つ間、三人ともカウンターの中にいた。立ったまま。客用のスペースには出なかった。作る側の場所に、そのまま残っていた。
グリルの中でカマの脂が落ちた。皮が焦げる匂い。今日一日の匂い——にんにく、出汁、醤油、オリーブオイル、唐揚げの油——の上に、最後の匂いが重なった。骨の際の、一番うまい部分が焼ける匂い。
焼けた。
皿に載せた。箸を三膳。
さつきがカマの皮を剥がした。身をほぐした。脂が箸の間で光っている。
「うまっ……」
さつきが言った。声が小さかった。客に出す時の声じゃなくて、自分のための声だった。
俺も食べた。骨の間の身を箸でつついて取った。熱い。うまい。
なんとなく、今日あったことを全部思い出そうとして、やめた。思い出さなくてもいい。ここにある。
澪が食べていた。カマの身を、小さくほぐして、ゆっくり口に運んでいた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
グリルの残り火がカチカチと鳴っていた。換気扇が回っていた。壁の時計の秒針が動いていた。
はなれの外は静かだった。飯田街道を走る車の音が、遠くでひとつ。
澪が箸を置いた。
一拍。
「楽しかった」
それだけだった。
さつきが笑った。声は出さなかった。口の端だけが上がって、目が細くなった。
俺は何も言わなかった。
でも、何かが動いた。胸の奥の、言葉にならない場所で。
朝の五時に一人で来ていた手。電卓を出した手。敦賀で天然ぶりを選んだ手。カウンターの奥行きを測った手。
その手が今、カマを持っている。
澪が初めて「今」に言葉をつけた。
先でも、次でも、計算でもなく。今、ここで起きたことに。
*
澪がポケットからスマホを出した。
画面を見た。八万六千人。
画面を消した。ポケットに戻した。
さつきが立ち上がった。
「片付け、終わらせよう」
澪が頷いた。俺も立った。
皿を洗った。グリルの網を洗った。カウンターを拭いた。床を拭いた。
ゴミ袋を三つ縛った。醤油の染みは取れなかった。
換気扇を止めた。はなれの中が静かになった。
電気を消した。
引き戸を開けて、外に出た。三人分の靴が並んでいた。
冬の夜の空気が冷たかった。吐く息が白い。
「帰ろう」
澪が言った。
引き戸を閉めた。歩き始めた。飯田街道を、三人で。
なんとなく、同じ速度で歩いていた。
さっきまでの喧噪が嘘みたいに、通りは静かだった。足音だけが三つ分、アスファルトに落ちていた。
三十人が「次」を待っている。その「次」を作るのは、俺たちだ。
それは、三人で米を研いでいた頃には、なかったものだった。




