76 トラウマ
西門を抜け、見慣れた茂みを掻き分けると、昨日と同じようにぽっかりと口を開けたギルドダンジョンの入り口が見えてきた。入り口のギルド職員に短く会釈をして中に入ると、俺たちは昨日登録した青白い光を放つ転送装置へと一直線に向かう。
冷たい石の台座に手を触れ、目を閉じて5層の薄暗い空間を強くイメージする。視界が一瞬だけ眩く白に染まり、ふわりとした浮遊感が全身を包んだ直後、周りの空気がむせ返るような泥と獣の臭いが混ざったものへと変化する。
目を開ければ、そこはすでに5層のスタート地点だ。
1層とは明らかに異なる気配を肺に吸い込みながら、俺とルカは一定の間隔で配置された魔法の松明が落とす不気味な影を頼りに薄暗い通路を慎重に進んでいく。
足音を殺しながらいくつかの角を曲がった先で、それは突然、岩陰から這い出るようにして姿を現した。
「ギィ……ギャッ」
目の前に現れたのは醜くひしゃげた緑色の肌。獲物を品定めするような濁った黄色い瞳。その手には、どす黒い血の跡がこびりついた刃こぼれだらけの錆びた斧を握った一匹のゴブリンだ。
その姿を視界に捉えた瞬間、俺の全身から一気に血の気が引いていくのがわかった。
心臓の動きが早くなるのを感じ、喉が干からびたように呼吸が浅くなる。脳裏にフラッシュバックしたのは、初めてゴブリンと遭遇し、圧倒的な知力と殺意の前に手も足も出ず無様に敗北しかけた時の記憶……。
あの時に感じた恐怖と絶望感がじっとりと冷や汗となって背中を伝う。一歩でも足を踏み出せば無惨に殺されるという錯覚に完全に囚われ、両足が床と同化してしまったかのように鉛のように重くなり、完全に竦んでしまう。
手が震え、腰の剣の柄に指をかけることすらできない。息を呑んだまま不様に硬直する俺の背後に居るルカは、焦るでも呆れるでもなく、ただ何も言わなかった。
その代わり、鋭い風を切る音と共に、彼女のしなやかな尻尾がペチッと音を立てて俺の尻を強く引叩いた。
「痛っ!」
予想外の場所への物理的な刺激に、肺の底で固まっていた息が口から漏れる。同時に、頭の芯をべっとりと覆い尽くしていたどす黒い恐怖の霧が、パッと晴れていくのを感じた。
(……そうだ、負けた時のことなんて考えてる場合じゃない。俺はあの頃の弱いままの俺とは違うんだ)
横目でルカを見ると、彼女は「しっかりしなよ」と言わんばかりに、自信に満ちた表情で小さく頷いてみせた。その頼もしい相棒の存在に背中を押され、俺は恐怖を振り払うように深く息を吸い込み、腰の鞘からヒヒイロカネの剣を勢いよく引き抜いた。
「ふっ!」
短く気合いを吐き出し、俺は硬直の解けた足で力強く地面を蹴り、ゴブリンに向かって一直線に駆け寄り、上段からヒヒイロカネの剣を振り下ろす。しかし、相手も腐っても魔境を生き抜く魔物だ。ゴブリンは醜悪な笑みを浮かべながら身を捻り、紙一重のところで真紅の刃を躱してみせた。
体勢が前のめりに崩れた俺の隙を突き、ゴブリンは「ギャアッ!」という鼓膜を破るような奇声と共に、手にしていた錆びた斧を俺の顔面めがけて力任せに投げてくる。
空気を裂いて回転しながら迫り来る凶刃。体勢を立て直す時間はなく、剣で防御しようとした――その時だった。
キンッ!!
暗い通路に鋭い金属音が鳴り響き、飛んできた斧が不自然な軌道を描いて弾き飛ばされ、壁に激突して火花を散らした。ルカが後方から一瞬の隙も与えずに放った一本のクナイが、空中の斧を見事に撃ち落としてくれたのだ。
「ルカ、助かった!」
背後へ短い礼を投げかけると同時に、俺は体内の魔力を足の筋肉へと急激に流し込み、身体強化魔法であるブーストを発動させた。壁にぶつかるかもしれないが、早めのブレーキを意識すればいいだけだ。そして全身の筋肉が熱を帯びる感覚に身を任せ、一度後方へ下がりゴブリンとの距離を十分に取る。
戻った瞬間、ブーストによって限界まで強化された脚力で石畳を砕かんばかりに踏み込み、今度は砲弾のような速度でゴブリンに向かって突進した。
視界の端で景色がブレるほどの圧倒的な加速。武器を失い、俺の突然の理不尽なスピードの変化に反応すらできていないゴブリンの懐へ潜り込む。
「はぁぁぁっ!」
気合いの声と共に、今度こそ逃げ場のない完璧なタイミングでヒヒイロカネの剣を横薙ぎに振り抜いた。
肉や骨を断つような生々しい抵抗感はほとんどなく、圧倒的な切れ味を誇る真紅の刃はゴブリンの太い胴体を容易く両断した。上下に分かたれた緑色の体は、地面に崩れ落ちるよりも早くボロボロと崩れ去り、黒い霧となって音もなく消滅する。
静寂が戻った5層の通路には鮮やかなオレンジ色の魔石が一つ、カランと虚しい音を立てて石畳の上に転がった。
「やるじゃないか。君は過去にこのボクを倒したんだ。ゴブリンなんかに怖気づいちゃ、ボクがゴブリン以下になっちゃうから自信持って挑むと良いよ」
オレンジ色の魔石を拾い上げながら、ルカが少しだけ得意げに笑って見せる。その声色には確かな気遣いが滲んでいた。
「……にしても、さっきのフォロー助かったよ。ありがとう」
心からの礼を口にした途端全身からふっと力が抜け、俺はその場にへなへなと座り込んでしまった。冷たい石畳の感触が自分がまだ生きていることを実感させてくれる。
そんな俺を見下ろしながら、ルカが不思議そうにピンと立った耳を傾けた。
「ゴブリン相手に怖じ気づく理由って、何かあったのかい?」
「……リースにぬいぐるみを買った日、覚えてるか? あの日の午前中はミリアと一緒にゴブリン退治に行ってたんだが、ゴブリンの知能が一枚上手で死にかけたことがあった……というより、装備がなければ確実に死んでたんだ。その事を思い出してな」
苦笑いながら打ち明けると、ルカは静かにしゃがみ込み俺と目線を合わせた。そして、細くしなやかな手で俺の頭を子供をあやすように優しく撫で始めた。
「痛い思いはするけどここでは絶対死なないし、何かあればボクが守るから安心して。ミリア君に初めて会った時、君を守ることを誓ったあの言葉は嘘じゃないからね」
頭を撫でる心地よい感触とルカの真っ直ぐな言葉。ルカが俺の奴隷として加わった時に交わした誓いだ。
それを聞いた瞬間、俺の脳裏にかつてミリアがルカに対して口にしていた台詞が鮮明に蘇る。
『ユズルさんはまだまだ弱いから、これからはユズルさんを守る為に働いてくれたら嬉しいな。私もずっとユズルさんのそばに居るわけにはいかないからさ』
あの時はただの世間話のように聞いていたが、活発な姉御肌である彼女の中には俺に対する真剣な気遣いが込められていたのだ。
女性陣に振り回されがちな日常の中で、俺自身が彼女たちを絶対に守り抜くという決意を固めていたはずなのに、今はこうして頼りになる相棒たちに心の底から救われている。その事実に気づかされた俺はなんとも嬉しいやら情けないやら、そして無性に恥ずかしいやらで胸がいっぱいになり、照れ隠しのようにしばらくの間俯いたまま立ち上がることができなかった。
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