生きて帰ってこれた、という勝利
最初に戻ってきたのは、痛みだった。
鋭い痛みじゃない。
全身の骨が軋み、千切れた筋繊維が熱を持ち、火傷の跡がひどく疼く。
鉛みたいに重くて、息をするだけで肺の奥が血の味で満たされる。
ああ、生きてるな。
そう嫌でも実感させられる類の、泥臭い痛みだった。
俺は仰向けに冷たい石床へ倒れ込んだまま、ぼんやりと天井を見上げていた。
遥か高く霞むアーチ。
根本からへし折れた石柱。
つい先刻まで、絶望的な命の削り合いをしていた場所とは思えないほど、ただ静かだ。
音が、ある。
どこかで水滴が落ちる、微かな反響。
誰かのブーツが小石を蹴る音。
ひどく荒く、不格好な呼吸の連なり。
戻ってきた。
あの絶対の沈黙の底から。
喉がひりつく。
声を出そうとして、もしまた何も聞こえなかったらと思うと怖くて、やめた。
隣で、誰かが大きく息を吐き出した。
「……はぁ……」
ガイルだ。
横へ視線を向けると、ガイルもまた仰向けのまま天井を見上げていた。
自慢の鎧は無惨に砕け散り、背中から腹にかけては急造の包帯と血の跡で悲惨な有様だ。
それでも、その分厚い胸は確かに上下している。
「……生きてるな」
声が、出た。
砂を噛んだみたいに掠れていて、情けない音。
でも、ちゃんと空気を震わせた俺の声だ。
ガイルが、ゆっくりと首だけを回してこちらを見た。
「……ああ。なんとか」
その、ひどく疲れきった返事を聞いた瞬間だった。
腹の奥底から、すとんと何かが抜け落ちた。
――ああ、生きて帰ってこれた。
その実感が、遅れて、巨大な波みたいにどっと押し寄せてくる。
「……っ」
笑いが、込み上げた。
「ふはっ」
自分でもどうかと思うほど、間抜けな声だった。
でも、止まらない。
「……ふ、はっ……あは……っ」
ガイルが、怪訝そうに目を瞬かせる。
「……なんだよ」
「いや……だってさ……っ」
言葉がうまく繋がらない。
肺から押し出されるのは、笑い損ねた空気の塊ばかりだ。
その時、離れた床にへたり込んでいたハイドが、両手で頭を抱えたまま腹を折った。
「あはははははは!!」
突然の爆笑だった。
石の床をばんばん叩きながら、心底おかしそうに笑い転げる。
「やっべぇ……! マジでやっべぇよこれ!! あはははは!! ほんとに死ぬかと思った!!」
エドが、半分崩れた壁にもたれたまま、低く息を漏らす。
「……くっ……」
肩が、わずかに揺れている。
笑っている。
あの、感情の起伏が死んでいるみたいなエドが。
ミスティが、両手で顔を覆ったまま、泣き声と笑い声の間みたいな息を零した。
「っ、もう……やめて……っ、あは……! 緊張が……一気に抜けて……っ」
ミーナは、その場にぺたりと座り込んだまま、震える両手で口元を押さえていた。
「……だって……っ、私たち……生きて……っ」
そこまで言ったところで、とうとう言葉が崩れた。
「……ふ、あはっ……!」
それが最後の引き金になった。
「っ、あはははは!!」
「やめろって……っ、ふは、ははっ!」
「無理、無理です……っ、あは……!」
「……く、っ……」
笑いが、連鎖する。
何か面白いことがあったわけじゃない。
ただ。
俺たちは生きて帰ってきた。
死の淵から、全員で這い上がってきた。
それだけで、もう笑うしかなかった。
クリムが、俺の胸の上にぽすっと飛び乗ってきた。
「きゅっ」
その気の抜けたような鳴き声が、妙に間が良すぎて。
「あはははは!! お前まで参加するな!!」
ハイドが指を差して、さらに笑い転げる。
ルゥがよろよろと立ち上がり、全員の顔を順番に嗅いで回ってから、俺の顔の横で短く吠えた。
「わふっ」
泥だらけの尻尾が、千切れそうな勢いでぶんぶん振られている。
それを見た瞬間、全員の笑い声がもう一段跳ね上がった。
「ははっ……! 見ろよ、こいつ、めちゃくちゃ得意げだぞ……!」
「ほんと……っ、やだ……! 可愛いの今じゃないでしょ……っ、ふふっ……!」
「……お前も無事確認してたのかよ……っ、あは……!」
俺は天井を見たまま、短く息を吐いた。
「……やれやれ」
胸が、まだひどく苦しい。
劇薬の反動で、指先まで痺れるように重い。
でも。
この命の重さは、ちっとも嫌じゃなかった。
「……店主」
ミーナが、そっと声をかけてきた。
顔を向けると、彼女は少し照れたように、でも真っ直ぐに俺の目を見ていた。
「……ありがとう」
短い言葉だった。
でも、そこには彼女が見てきた絶望と、それをどうにか繋ぎ止めたことへの全部が詰まっていた。
俺は、重い腕を少しだけ上げて、軽く振る。
「礼は、全員生きて帰った時点で済んでる」
ガイルが、痛む腹を押さえながらくっと笑った。
「……相変わらずだな」
「前衛が死ぬ構成は、俺の趣味じゃない」
「はは……。次はもっと楽なダンジョンにしようぜ……」
「お前のその言葉は、二度と信用しない」
また、どっと笑いが起きた。
「ひどっ!」
「でも分かる……っ」
「信用したら死ぬな」
「……死ぬでしょうね」
少しして、全員がよろめきながらも、ようやくその足で立ち上がった。
奥に転がっている宝箱。
後回しでいい。
魔物の残骸や戦利品。
俺たちの命より、ずっと軽い。
今は、この温かい空気を一秒でも長く引き延ばしたかった。
それでも。
俺たちは、店へ帰らなければいけない。
「……行こう」
ガイルが前を向いて言う。
その一言で、全員が力強く頷いた。
来た道を戻る。
足取りは鉛みたいに重い。
でも、不思議と怖さはもう欠片もなかった。
あの絶対の沈黙は、もうどこにもない。
途中、足を引きずりながら歩いていたハイドが、ふと思い出したように口を開いた。
「……なぁ、店主」
「ん?」
「さっきさ、あのボスの連撃。俺、完全に避け損ねてた瞬間があったんだけど」
「うん」
「なんで俺、両足で立ってたと思う?」
俺は肩をすくめる。
「敷物が良かったんだろ」
「……やっぱそれか。怖ぇよお前の薬」
エドが、前を歩いたまま短く言う。
「……後ろで支えるやつ、やりすぎだ」
それはエドなりの、最大限の賛辞だった。
ミスティが、杖を突きながらくすっと笑う。
「……でも、それがなかったら……」
言葉が途切れた。
その先を口にするのが、まだ少し怖かったからだ。
ミーナが、代わりに言う。
「……全滅でしたね」
誰も、否定しなかった。
余計なくらい持ち込んだ分が、どうにか全員を繋いだ。
そのことだけは、誰の顔を見ても分かった。
長い縦穴を抜け、ようやく見覚えのある空間に出た。
転移陣が見えた時、全員が心の底からほっと息を吐いた。
「あー……やっとだ……」
「……長かった……」
「帰れる……」
床の紋様を踏む。
光が、俺たちを優しく包み込む。
次に目を開けた時。
そこは――見慣れた、ギルド近くの安全地帯だった。
外の空気。
街の匂い。
喧騒。
「……帰ってきた」
誰かが、そうぽつりと呟いた。
その言葉に、全員が顔を見合わせた。
それから、もう一度だけ笑った。
「ははっ……」
「……あー、ほんとに帰ってきた……」
「生きてる……」
「うん……生きてる……」
勝利の笑いでもない。
達成感の笑いでもない。
生きて、帰ってこれた。
ただそれだけの、どうしようもなく緩んだ笑いだった。




