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錬金術師のポーション屋。疲れたときはやっぱりこれ  作者: ChaCha


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沈黙が牙を剥く

扉は、開いたはずだった。


重い石が擦れる振動は、足の裏から確かに伝わってくる。

視界の中でも、巨大な石扉がゆっくりと左右に割れている。

なのに、耳には一切の音が届かない。


向こう側の空間が露わになる。


広い。

これまでの通路や広間とは、そもそもの規格が違った。


遥か高く霞む天井。

円形に並ぶ、見上げるような石柱。

床の全面に深く刻み込まれた、巨大な魔法陣。

淡く脈打つ光が、床から天井へと昇っていく。


ここまで来ると、沈黙はもう空気そのものだった。


音がないんじゃない。

音というもの自体を、この場所は受けつけていない。


俺は無意識に喉を鳴らそうとして――やめた。

無駄だ。

ここでは、音を出そうとするだけで喉の奥がひりつく。


ガイルが一歩、前に出た。

肩の力が抜け、重心が地の底へ向かって沈む。


その瞬間だった。


床の魔法陣が、裏返った。


光が反転する。

空間が軋み、視界の上下左右が一瞬だけ消える。


現れた。


中央。

魔法陣の核、そのど真ん中。


巨大な影が、泥の中から引きずり出されるように立ち上がる。


骨を無造作に寄せ集めたような、歪な外殻。

その内側に蠢く、底なしの暗闇。

背中からは、不気味なほど滑らかな複数の腕が伸びている。


顔に当たる部分には、何の器官もない。

代わりに胸部の分厚い装甲には、巨大な紋章が深く刻み込まれていた。


「音」を示す古い文字を、無理やり潰したような意匠。


――沈黙の守護者。


ガイルの背中が、わずかに強張る。

声は出ない。

だが、全員の肌が理解した。


来る。


次の瞬間。


守護者が、無造作に腕を振るった。


空間が殴り飛ばされた。


見えないはずの衝撃が、巨大な波紋となって視界に浮かび上がる。

大気を歪め、石柱の表面を抉り取りながら、一直線にこちらへ殺到する。


ガイルが盾を構え、正面からその波紋にぶつかった。


重い。


音のない凄まじい衝撃が、ガイルの身体を軋ませる。

盾が沈み、ブーツが床の石を削りながら半歩後ろへ滑った。


俺は即座に動いた。


鞄を開け、三本の小瓶を指の間に挟み込む。

敵意を引きつける匂いの強いやつ。

踏ん張りを残すやつ。

骨に来る衝撃を散らすやつ。


一本をガイルへ投げ、一本を足元で割り、最後の一本を自分で飲み干す。


匂いが空間に散る。

薬効が血管を走る。


ガイルの足が、ぴたりと止まった。

盾の縁が床に食い込み、殺戮の衝撃波を真っ二つに裂く。


割れた波紋が、後方の柱を粉砕する。

だが、俺たちには届かない。


どうにか形になる。


ハイドとエドが、弾かれたように左右の死角へ散る。

ミスティが杖を構え、治癒の準備に入る。

ミーナが俺の斜め前へ滑り込み、全体の視界を拾う。


守護者の顔のない頭部が、ガイルへ向いた。

前衛へ殺意が固定された証拠だ。


直後、床の魔法陣が毒々しい赤に染まった。


連撃。


背中から伸びた影の腕が、狂ったような速度でガイルを打ち据える。

腕。

腕。

その間を縫うように、鋭い影の刃。


ガイルがすべてを受け止める。


盾が歪み、装甲が悲鳴を上げているのが、音もないのに分かる。

だが、一歩も引かない。


俺は後方から、微弱な薬を次々と投げる。


関節の動きを渋らせる油。

魔力の巡りを少し鈍らせる毒。

派手さはない。

だが、一撃の重さを確実に削っていく。


ハイドが背後へ回り込み、装甲の隙間に短剣をねじ込む。

エドが反対側から、重い一撃で外殻を断つ。


刃が、深く入る。


だが、守護者の動きは鈍らない。

斬り裂かれた影が、次の瞬間にはもう塞がっている。


ミーナの目が、恐怖ではなく理解で鋭く見開かれた。


(……音だ)


俺も、そのからくりを理解した。


こいつ、俺たちが立てたものを食ってる。

だから硬くなる。


呼吸。

床を蹴る振動。

剣を振るう風切り。

防いだ時の衝撃。


この場で生まれたものが、全部あいつに食われる。


冗談じゃない。


次の瞬間。


守護者が、突如としてガイルから意識を逸らした。

影の腕が異常な長さに伸び、後方のミスティへと襲い掛かる。


ミスティの瞳が極限まで見開かれる。


一瞬。

本当に、瞬きほどの隙。


エドが、その直線上に割り込んだ。


剣の腹を盾代わりにして、影の腕を正面から受ける。


直撃。


エドの身体が紙屑のように弾き飛ばされ、床を無惨に転がった。

音はない。

なのに、骨に来る痛みだけがこっちまで伝わってくる気がした。


ミスティが駆け寄ろうとする。

だが、守護者の次の腕がもう振り上げられていた。


俺は歯を食いしばり、鞄を抱えたまま前へ出た。


後方支援が前に出るのは、陣形が崩れた証拠だ。


床に特殊な小瓶を叩き割る。


中から爆ぜたのは、極限まで圧縮した振動だ。

音そのものじゃない。

だが、空間に破裂に似た揺れを無理やり作る。


守護者の動きが、その虚報に引っかかったみたいに一瞬だけ止まった。


その隙を見逃すガイルじゃない。


間合いを潰し、盾の角で装甲を殴りつけ、剣を関節の奥深くまで突き立てる。


殺意が、もう一度ガイルへ戻る。


だが、時間を稼いだ代償は重かった。


守護者の胸の紋章が、漆黒へ反転する。

空間の沈黙が、さらに一段深くなる。


ミスティがエドへ杖を向け、詠唱を紡ごうとして――硬直する。


魔力は集まる。

だが、術式にならない。


魔術は、言葉と大気の震えを通して形になる。

この沈黙の底では、それができない。


ミスティの指が震えた。


回復術師が封じられた。


ガイルがそれに気づく。

守護者の連撃を凌ぎながら、ほんの一瞬だけ振り返った。


(……回復が、来ない)


前衛として、最悪の理解だ。

それでも、彼の足は一歩も退かない。


俺は即座に動いた。


ここからは、俺の瓶で繋ぐ。


死にかけた身体を起こすための一本。

血を止める泥。

痛みを鈍らせるやつ。


三本を同時にエドの元へ投げ、ミスティに目配せする。


彼女がそれを受け取り、エドの傷へ叩き込み、口へ流し込む。

詠唱がなくても、命の線だけは手放させない。


ハイドが何かを叫ぼうとして、無意味さに気づき強く唇を噛んだ。


守護者の攻撃パターンが変わる。


手数を減らし、その分、一撃の重さを引き上げてきた。

盾ごとガイルを叩き潰す、質量そのものの暴力。


削られる。

確実に。


ガイルの肩が荒く上下し、限界が近いことを告げている。

エドの復帰は遅れ、ハイドの回避も紙一重になっていく。


ミーナが俺を見た。

その目がはっきり言っている。


(このままじゃ、先に前が潰れる)


俺は頷く。


だからこそ、折れないための薬をばら撒き続ける。


筋肉の疲労を散らす。

思考が泥濘むのを防ぐ。

恐怖で跳ねる心拍を、冷たい液で押さえる。


派手な火力なんか出ない。

まだ立てる。

それで足りる。


――だが。


迷宮の主は、さらに悪辣だった。


守護者の腕が床を叩く。

次の瞬間、ミーナの足元の魔法陣だけが、黒い泥みたいに口を開けた。


空間そのものの陥没。


落ちれば二度と戻れない。

覗き込んだだけで分かる、絶対の暗黒だった。


ミーナの身体が傾く。

声も上げられないまま、虚無へ引きずり込まれる。


ガイルが、迷わず横へ飛んだ。


追撃を防ぐための盾を、あっさり投げ捨てる。

剣を床の硬い部分に突き立て、それを支点にして、落ちていくミーナの身体を腕で強引に抱え込んだ。


無防備な背中。


守護者の腕が、容赦なくそこへ振り下ろされる。


ガイルの背中の鎧が弾け飛び、肉が深く抉られた。

血が、赤い飛沫となって虚空に舞う。


音はない。

だが、視界のすべてが暴力的な赤に染まった。


床の陥没が収まり、ミーナがガイルの腕の中で凍りついている。


(……ガイル?)


ガイルの口が、微かに動く。


(無事、か)


ミーナが、泣きそうな顔で何度も頷いた。


その瞬間。

俺の中で、冷たく張り詰めていたものが、ぷつりと切れた。


――もういい。


上等だ。


俺は鞄の底へ手を突っ込んだ。

奥の奥に隠していた、最後の一本。


限界用。


こんな場所で使うものじゃない。

だが、今使わなければ全員ここで死ぬ。


俺は床に膝をつき、別の二本を両手に握った。

普段は絶対に混ぜない、相反する性質のやつだ。

それを空中で砕き、手のひらの上で無理やりぶつける。


熱と冷気が同時に走り、俺の手の皮が焼けた。


死にかけた身体を、無理やり起こすための最後の一本。

治すんじゃない。

命の終わりを、強引に先送りにするだけだ。


ガイルの元へ滑り込む。

彼の意識は、もう深い底へ沈みかけていた。


俺は血まみれのその頬を、容赦なく張り倒した。


――起きろ。置いていくぞ。


無理やり口をこじ開け、掌で暴れ回る劇液を流し込む。


ガイルの身体が、大きく跳ねた。

傷口から蒸気が噴き出し、抉れた肉が強引に閉じていく。

完全な治癒じゃない。寿命の前借りだ。

だが、今は死なない。


ガイルの目が、かっと見開かれた。

血走った瞳が、俺を見る。


(……悪い)


俺は首を振る。


(庇うのは前衛の仕事だ。でも、死ぬな)


ガイルが、血濡れた牙を剥いて笑った。


立ち上がる。


盾はない。

剣一本。

だが、その全身から立ちのぼる気配は、さっきまでとは違っていた。


声は出ない。

でも、ここしかないと分かった。


俺は最後の一手を、守護者へ向けて投げた。


音を食って、沈黙で固まる怪物。

なら、受けきれないものを押しつける。


炸裂した劇薬が、守護者の装甲に張りつく。


受けきれなかった。

初めて、装甲の継ぎ目が乱れた。


影の腕が痙攣し、防御がわずかに綻ぶ。


ハイドが床を蹴る。

エドが踏み込む。

ミーナが残った魔力を光に変えて前衛の背を押す。

ミスティが持てるだけの薬を砕いて、回復の霧を撒く。


そして、ガイルが跳んだ。


大上段から、剣を振り下ろす。

残った命を、全部乗せた一撃。


剣先が、守護者の胸の紋章に突き刺さる。


紋章が亀裂を走らせる。

光が逆流し、膨張し――


沈黙が、砕け散った。


――ガアアアアアアッッ!!


鼓膜を破りそうな崩壊音。

魔力の断末魔。

怪物の絶叫。


全部が、暴力みたいな音になって世界へ戻ってきた。


守護者の巨体が光の粒子となって爆散し、強風となって広間を吹き抜ける。


そして。


今度こそ、本当の静けさが訪れた。


しばらく、誰も動けなかった。

肩で息をする音だけが、石の広間に響き渡っている。


ミーナが、震える手でガイルの腕に触れた。


「……」


声が出た。


ひどく掠れて、ひび割れた声。

でも、確かにそれは音だった。


「……生きてる」


ガイルが、剣を杖代わりにして息を吐く。


「……ああ。ギリギリな」


ハイドが大の字になって床に倒れ込んだ。


「……無茶苦茶しやがって……」


エドが剣を鞘に収め、短く言う。


「……勝った」


ミスティがその場にへたり込み、両手で顔を覆って泣き出した。

声を上げて泣けることが、今は何よりありがたかった。


俺も、床に腰を下ろした。


膝が笑う。

指先が火傷でひどく痛む。


でも。


全員、生きている。


俺は、仲間の顔を一人ずつ順番に見た。


ガイル。

全身血まみれで盾も失ったが、笑っている。


ミーナ。

涙を流しながら、ガイルの腕を絶対に離そうとしない。


ハイド。

床に転がったまま、天井を見上げて笑っている。


エド。

壁にもたれかかり、静かに目を閉じている。


ミスティ。

泣き腫らした目で、俺を見て小さく頭を下げた。


全員、生きている。


俺はゆっくり立ち上がり、自分の鞄の中を覗き込んだ。


中は、ほとんど空っぽだった。


限界用は使い切った。

予備の劇薬もない。

生活用の薬草が、端の方で少しだけ転がっているだけだ。


だが、それでいい。


全部使い切って、全員で帰れるなら。

それが、俺の仕事だ。


ルゥが俺の足元にすり寄り、大きな頭を押し付けてきた。

尻尾が、ばさばさと床を叩く。

クリムが肩に飛び乗り、「きゅっ!」と高い声で鳴く。


俺は小さく笑った。


「……帰るぞ」


自分の口から出た声は、掠れていて、ひどく頼りなかった。

それでも、ちゃんと俺の声だった。


ガイルが頷く。


「ああ。帰ろうぜ」


ミーナが立ち上がる。


「うん」


ハイドが床から跳ね起きる。


「やっと終わったー!」


エドが無言で背筋を伸ばし、歩き出す。

ミスティが微笑む。


「帰りましょう、私たちの店へ」


沈黙の階層が、初めてただの古い石造りの遺跡に見えた。

音が戻ったからじゃない。

ここに、ちゃんと終わりが来たからだ。


俺たちは歩き始めた。

来た道を、ゆっくりと戻る。


蔓の残骸。

影獣の消えた跡。

黒い土の感触。

苔むした石の通路。

そして、縦穴のロープ。


擦り切れた掌でそれを握り、少しずつ上へ登る。


やがて、頭上に外の光が見えた。

乾いた風が吹き込んでくる。

どこかのパン屋が釜を開けたのか、焼けた小麦の匂いが微かに届いた。


荷馬車の車輪の音。

誰かの話し声。

街のざわめき。


少しずつ、耳がそれで満たされていく。


俺は一度だけ、大きく、深く息を吸い込んだ。


生きてる。

全員、生きて帰ってきた。


それだけで、今はもう十分だった。


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