軽口の消えた連携
光が滲んで、俺たちは別の通路に吐き出された。
転移の感覚はいつも嫌いだ。
足元が消える不快感。
それなのに、次の瞬間には冷たい石床が当たり前のような顔をして存在している。
世界が俺の感覚を置き去りにしていくのが、どうにも腹に据えかねる。
着地した瞬間に肌を刺したのは、さらに深まった無だった。
音が、薄い。
息を吸い、吐く。
それだけで生じるはずの微かな反響すら、空気は一切返さない。
喉の奥で鳴ったはずの音が、鼓膜に届く前に何者かに奪われている。
誰も、すぐには口を開かなかった。
開いたところで、その言葉が誰の元へも届かないことを、本能が察知している。
ガイルが先頭に出た。
肩越しに振り返り、指を二本立てる。
――隊列維持。速度を落とせ。
ミーナが同じ合図を返す。
ハイドは軽く口笛を吹こうとして、音が出ないことに気づいて苦い顔をした。
その顔だけで、胸のつかえが少し下りた。
エドは最初から音に期待などしていない顔で、左右の暗がりを淡々と視線で切り取っていく。
ミスティは杖を胸に抱え、唇を動かして詠唱を試みた。
……届かない。
音が出ないのではない。
紡がれたはずの力が、大気に吸われて霧散していくのだ。
俺は鞄の口を開け、薄緑色の小瓶を取り出した。
内耳の圧を整え、呼吸の乱れを無理やり抑え込むためのもの。
沈黙が濃い場所では、耳が勝手に不安を作り出す。
聞こえないことが怖いんじゃない。
聞こえないことを、脳が異常として扱い続けるのがまずい。
全員に渡し、合図で一気に煽らせる。
ガイルが眉を上げた。
――今か?
俺は頷く。
怖くなる前に、土台を固める。それが俺の仕事だ。
飲み終えたミーナが目を閉じ、深く息を吐いた。
強張っていた肩の線が、わずかに和らぐ。
ハイドが小声で何かを呟いた。
音は死んでいるが、唇の動きで分かる。
(……効くな、これ)
エドは無言で頷く。
ミスティは唇を軽く噛み、ようやく目の焦点が定まった。
これで、少なくとも沈黙に呑まれっぱなしでは済まない。
沈黙の中を進む。
通路はゆるく曲がり、壁には湿った苔が増えていく。
灯りはない。
なのに、闇でもなかった。
石そのものが光を孕んでいるのか、あるいは空気が淡い燐光を抱えているのか。
一歩ごとに、足裏の感触だけが研ぎ澄まされていく。
砂の粒。石の凹凸。苔のぬめり。
ここでは視覚より触覚の方が、よほど正直だった。
ルゥが俺の足元を離れず、常に周囲を警戒している。
耳が細かく動き、音のない空気の揺らぎを拾い上げていた。
クリムは俺の肩で丸まり、たまに「きゅ」と鳴く。
その声すら薄れるが、温もりまでは消えない。
少し進んだところで、ガイルが足を止めた。
指を鳴らす動作。
音は鳴らない。
代わりに拳を握り、ゆっくりと開く。
――敵だ。
俺も息を止める。
沈黙の中では、呼吸を止める行為自体がやけに大袈裟に感じられた。
曲がり角の先。
床に落ちた影が、ほんの少しだけ揺れた。
ハイドが短剣を抜き、エドが剣を半分だけ鞘から走らせる。
ミスティが杖を構え、ミーナが俺の鞄へ視線を投げた。
雑魚だ。
だが、この沈黙の中ではその雑魚が一番の難敵になる。
声による連携が、一切通用しない。
ガイルが前に出る。
重心を深く沈め、盾を構える。
囮。
敵の殺意をすべて自分に引き付ける構えだ。
俺は小瓶を二本、指先に挟む。
ひとつは、神経を無理やり研ぎ澄ませる反応液。
ひとつは、揺れる視野を一定に固定するもの。
ガイルが剣の腹を床に軽く当て、合図を送った。
――突入。
次の瞬間、闇が弾けた。
狼に似た影の塊と、細長い虫型の魔物。
どちらも、一切の音を立てない。
立てないからこそ、動きが読めない。
ガイルが踏み込み、盾を打ちつけた。
衝撃音がしない。
なのに、強烈な衝撃がそこにあることは視覚が教えてくれる。
盾を受けたガイルの腕が、ぐっと沈む。
そこへ影の牙が食らいついた。
俺は即座に一本、ガイルへ投じた。
彼の手が、空中で正確にそれを搦め捕る。
見ていないのではない。
背中で、俺の位置を把握している。
ガイルが飲む。
筋肉の踏ん張りが増し、押し込まれていた腕が戻る。
影獣の注意が、ガイルという巨大な壁に釘付けになった。
ハイドが横に滑る。
音がないからこそ、その動きが鮮明に浮かび上がった。
関節の隙間に短剣をねじ込む。
動きが鈍った瞬間、エドの重い一撃が虫を両断した。
光になって消える。
床に吸い込まれるようなその死に様は、あの草原階層と酷似していた。
嫌な共通点だ。
ミスティは後ろで構えを解かない。
誰かが倒れる前に、その予兆を瞳に焼き付ける。
回復術師は、こういう時ほど残酷なまでに静かな仕事をこなす。
ミーナが俺の斜め前に立ち、俺とガイルの間を繋いだ。
その位置にいてくれるだけで、前と後ろが切れない。
影獣がガイルの盾をこじ開けようと、暗い光を帯びた牙を剥く。
呪いか、あるいは毒か。
俺は迷わず、もう一本を投げた。
体内の巡りを鈍らせ、浸食を遅らせるための微調整。
ガイルがそれを受け取って呷る。
噛まれたとしても、すぐには崩れない。
ガイルが笑った。
口角の上がり方で、言葉が聞こえる。
(……助かる)
影の動きがわずかに遅れた。
そこへエドが背後から刃を沈める。
淡い光が弾け、影獣が霧のように霧散した。
戦闘終了。
全員が一瞬、その場に固まった。
静けさが戻る。
いや、もともと静寂の中で暴れていただけで、その暴威が消えただけだ。
ハイドが親指を立て、俺を指差してから首を傾げた。
――今の薬、何だ?
俺は小瓶のラベルを彼に見せた。
言葉の代わりに、文字で語る。
ハイドが目を細めて笑う。
(お前、こういう時だけは頼りになりすぎるだろ)
ミーナが小さく息を吐き、俺の袖を掴んだ。
指先が、微かに震えている。
声は出ない。
けれど、伝わってくる。
怖かった。
でも、助かった。
ありがとう。
俺は彼女の手をほどき、掌を上に向けて落ち着けと合図を送った。
ミーナが頷く。
彼女の心配は、弱さではない。
チームの綻びを見つけるための、鋭敏な感覚だ。
ガイルが通路の先を指差し、指を二本立てた。
――次の区画へ。
沈黙が、じわじわと心に染み込んでくる。
いつもなら軽口を叩き合う場面で、口が開かない。
届かないと分かっているから、言葉を飲み込む。
思考が内側に沈み、不安が育つ。
そうなる前に、俺はもう一本を取り出した。
内側に沈み込みすぎないための、精神の薄い膜。
恐怖を消すのではない。
恐怖が増殖するのを防ぐだけの、ささやかなお守りだ。
ミスティが俺を見る。
目で問いかけてくる。
――今?
俺は頷く。
心が折れる前に、補強する。
ミスティは微笑んで飲み干した。
その微笑みを見るだけで、少し呼吸が浅くならずに済む。
通路が開け、黒い土のエリアに入った。
踏むと湿った音が……やはりしない。
天井からは水滴が落ちている。
波紋は広がるが、音は途中で消える。
どこまでも性格の悪い階層だ。
ハイドが口を動かした。
(ここ、嫌いだ)
俺も同感だ。
だが、観察を止めるわけにはいかない。
ここは匂いが強い。
湿った土。腐った葉。そして――鉄の匂い。
血ではない。
だが、誰かがここで刃を振るった残滓だ。
ルゥが鼻を地面に近づけ、低く唸った。
ガイルが拳を握る。
――止まれ。
止まった瞬間、地面が動いた。
土の下から、細い影が数本、触手のように伸び上がる。
植物型の魔物。
足首を狙い、引きずり込もうとする。
音はない。
悲鳴も上げられない。
だが、叫ぶ必要はなかった。
ガイルが即座に盾を打ち込み、蔓を引き剥がす。
ハイドが地面を滑るように移動し、根元を断つ。
エドが逆側から切断を重ねる。
音がないぶん、連携だけが異様に目についた。
きれいで、嫌だった。
ミスティが光の粒を飛ばす。
傷が深くなる前に、皮膚を繋ぎ合わせる。
俺は鞄から三本を同時に取り出した。
絡まりを解くための油。
筋肉の痙攣を抑える鎮静。
そして、判断の瞬発力を跳ね上げる劇薬。
俺が瓶を投げ、ミーナが空中でそれを受け取って配る。
支援の支援。
彼女がいることで、俺の手数は倍になる。
ハイドが薬を煽り、さらに滑らかな動きで蔓を翻弄する。
ガイルには足元の安定を。
エドには死角への反応を。
全員が、転ばない。
この沈黙の中で足を止めることは、そのまま死を意味する。
蔓が最後の手向かいに、ミーナの足首を狙った。
気配は薄い。
だが、ルゥが先に動いた。
大きな巨体がミーナとの間に割り込み、牙で蔓を噛み切る。
音がしない分、その噛み切る勢いの凄まじさだけが視界に焼き付いた。
ミーナが目を見開く。
ルゥが一度だけ尻尾を振り、誇らしげに鼻を鳴らした。
(守ってやったぞ)
そんな顔だ。
戦闘終了。
蔓もまた、光となって土に吸い込まれていった。
ハイドが俺を見て、肩をすくめる。
(助かった)
俺は任せろと合図を返す。
俺は、足元が滑らないようにしただけだ。
それだけで足りる時もある。
ミーナが小さく笑う。
その笑い声は聞こえないが、心の重さを確実に削り取ってくれた。
エリアはさらに変貌していく。
根が減り、代わりに滑らかな白い石が増えていく。
古い神殿のような、人工的な静謐さ。
沈黙が似合いすぎて、吐き気がする。
現れたのは、鎧を纏った人型の影。
模造の守衛。
機械的な動作で、迷宮の侵入者を排除する守り手。
ガイルが前に出る。
音のない剣戟。
盾と剣がぶつかり合うたび、火花だけが散る。
模造守衛の刃は、魔力を削り取る。
削られれば、ミスティの回復が間に合わなくなる。
俺は小瓶を投げた。
刃の鋭さを物理的に鈍らせる、微弱な妨害。
派手さはないが、ガイルの盾にかかる重圧が確実に減る。
ミーナがガイルの背中に手を添え、支援の術を上書きする。
支援が重なり、ガイルは不落の壁と化した。
ハイドとエドが一体ずつ確実に仕留めていく。
ミスティの回復は、もはや過剰なほどに早かった。
沈黙の中では、遅れは死だ。
それを彼女は理解している。
守衛の一体が、突如として動きを変えた。
ガイルを無視し、後衛のミスティへと殺到する。
彼女の身体が、恐怖で強張る。
その瞬間、エドが割り込んだ。
剣を横に構え、その重い一撃を正面から受け止める。
ミスティの瞳が揺れた。
俺は即座にエドへ、痛みを散らす薬を投げ渡す。
彼は無表情にそれを飲み、守衛を力任せに押し返した。
守られて、戻して、また前へ出る。
それが途切れない。
すべての守衛を沈めた。
やはり、死骸は光となって床へ吸い込まれる。
この階層は、草原階層と地続きなのかもしれない。
嫌な予感が、胸の奥で燻り始めた。
天井の高い、広大な広間に出た。
床には幾何学模様が刻まれ、中央の円陣が薄く光っている。
沈黙が、さらに濃度を増した。
音だけでなく、感情まで吸い尽くそうとするような、絶対的な静寂。
ガイルが全員を止めた。
彼が俺を見る。
(……ここから先は、違うぞ)
俺も感じている。
鞄の中の限界用に、指先を触れさせる。
ハイドが口を動かす。
(ボスの匂いだ)
ミーナが頷き、ミスティが杖を握り直す。
エドが剣を正し、ガイルが深く息を吸い込んだ。
俺は全員に、最後の調整薬を配った。
疲れを落とし、折れそうな心を繋ぎ止めるためのもの。
ガイルにだけは、もう一本。
前衛が揺らがなければ、このチームは決して崩れない。
ガイルが飲み、俺を見て不敵に笑った。
(やっぱり、お前がいると楽だな)
俺は肩をすくめた。
否定はしない。
そういう時に否定すると、気が削がれる。
ミーナが、俺の袖に触れた。
(……戻ろうね)
俺は強く頷く。
必ずだ。
ルゥが一歩前に出て、広間の空気を嗅いだ。
尻尾が、ゆっくりと動く。
警戒は最大。だが、怯えてはいない。
クリムも肩の上で、鋭い視線を奥へと向けている。
軽口も、冗談も、ここでは意味を成さない。
けれど、言葉がないからこそ、俺たちは互いの熱を信じられる。
ガイルが手を上げた。
拳を握り、ゆっくりと開く。
――行くぞ。
俺たちは広間の中央、光り輝く円陣へと足を踏み入れた。
光が滲み、音がさらに遠のく。
視界の奥で、巨大な石の扉がゆっくりとその姿を現した。
中央に刻まれた、目のような紋章。
それが、俺たちを値踏みするように見つめていた。
誰も、口を開かない。
今は、言葉よりも呼吸の方が、よほど雄弁に信頼を語っていた。
俺は鞄の中の劇薬を握りしめた。
使う機会がないことを祈りながら、けれど、その時が来れば迷わない。
俺たちは、扉の先へと進む。




