反転の血清と、崩れゆく鱗。
「あの~」
カウンターの丸椅子に腰掛け、クリムを抱えて撫でていたギルド職員が、おずおずと手を挙げた。
「俺、役に立てそうもないから、自分の部屋へ戻っていいですか? 何かあったら起こしに来てください!」
リヒャルトが、安眠ポーションをすっと差し出す。
ギルド職員は名残惜しそうにクリムを手放し、銀貨を一枚置いて小瓶を受け取った。
「失礼します!」
医療長へもぺこりと頭を下げ、そのままいそいそと魔導リフトへ乗り込んでいく。
閉まりかけた扉の向こうで、クリムが短く鳴いた。
「きゅ!」
床に伏せたルゥも、尾をひとつ揺らす。
「わふ」
その後ろ姿を見送りながら、医療長がぽつりと漏らした。
「……ここに住んでいる者だったんだな」
店主が、短く息を吐いた。
「……調合を始める」
店主が錬金釜に火を入れた。
青白い炎が揺れ、壁際の瓶や器具の影を長く引く。
リヒャルトが棚から薬瓶と乾燥素材を次々と抜き取り、カウンターへ並べていく。
指先に、一切の無駄がない。
レッターは乳鉢と乳棒を拭き上げ、店主の手元へ滑らせた。
カチャリ。
メテスが無言で左腕の防具を外し、袖を捲る。
店主が、消毒した刃を滑らせた。
「……っ」
メテスの喉が、短く震えた。
赤い線が走る。
濃い魔力を孕んだ血が、用意されたビーカーへ滴り落ちた。
ポタ、ポタ。
たちまち、鉄の匂いがアトリエに立ち込める。
医療長は、釜の傍らで息を潜めたまま見ていた。
祈祷陣はない。
大掛かりな治療設備もない。
あるのは、錬金釜と乳鉢と、店主の手だけだ。
それでも手は止まらない。
何を削り、
何を足し、
どこで見切っているのか。
目で追っても、繋がらない。
レッターがメテスへ治癒魔術をかける。
裂けた皮膚が薄く閉じる。
リヒャルトが小瓶を差し出した。
メテスはそれを受け取り、一息で飲み干す。
店主が、メテスの血へ灰色の液を垂らした。
ジュッ。
焦げたような音が、釜の脇で弾ける。
鼻の奥を刺す臭いが立った。
医療長の足が、知らず半歩だけ引いた。
ゴリ、ゴリ、ゴリ。
店主が乳棒で素材を叩き潰し、そのまま釜へ放り込む。
炎の色が、赤から紫へ落ちる。
最後には、重い黒が釜の腹へ貼り付いた。
店主の指先に術式が走る。
淡い光が、釜の縁をなぞった。
しばらくして、店主が火を止める。
「……できたぞ」
お玉で掬い上げられたのは、赤黒く、脈打つように揺れる液体だった。
コトン、コトン、コトン。
小瓶へ移されるたび、リヒャルトが流れるように栓をする。
医療長が、小瓶を見つめたまま問う。
「使えるのか」
店主は赤黒い液を見た。
「……使うしかない」
魔導リフトへ乗り込み、一行は再び上層階へ向かった。
コンコン。
レッターが扉を叩き、静かに開ける。
ベッドの傍らで、母親が立ち上がる。
「……店主」
店主が、赤黒い小瓶を示す。
「……これを飲ませる」
母親の喉が、小さく鳴った。
赤黒い小瓶から目を逸らしかけて、
それでも寝台の娘を見て、唇を噛む。
一歩だけ下がって、場所を空けた。
店主がベッド脇へ立つ。
娘の顎を掴み、口を開かせる。
小瓶の縁を当て、赤黒い液体を一気に流し込んだ。
静寂。
一秒。
二秒。
「……っ、あ……ぁっ!」
娘の身体が、唐突に弓なりに跳ねた。
喉の奥から、空気が引き裂かれるような異音が漏れる。
「店主!」
医療長が叫び、助手が一歩踏み出した。
チャキ。
メテスが半歩前へ出る。
手は剣の柄にかかっていた。
殺気はない。
それでも、誰も二歩目を踏めなかった。
剣の柄に置かれた手と、
動かない横顔だけで足りていた。
店主の声が落ちた。
「黙って見ていろ」
低く、揺るがない声だった。
娘の肌の下に、黒い鱗のような模様が浮かび上がる。
喉の奥で、掠れた異音が続く。
黒い模様が、皮膚の下を這った。
内側から出口を探すみたいに、細く、速く。
メテスが、目を逸らさずにそれを追う。
やがて、端から崩れ始めた。
乾いた膜みたいに砕け、
滲み、
そのまま肌の奥へ沈んでいく。
娘の背がもう一度大きく反る。
そのあと、ふっと糸が切れたように力が抜けた。
弓なりになっていた身体が、重力に従って寝台へ沈み込む。
「……はぁっ、はぁ……、すぅ……」
荒く浅かった呼吸が、少しずつ静かな寝息へ変わっていく。
頬に、うすい赤みが戻り始めていた。
店主が短く呼ぶ。
「メテス」
メテスが時間をかけて視る。
やがて、短く頷いた。
「……残滓はない」
その言葉と同時に、医療長が駆け寄る。
娘の手首を取り、脈を測る。
胸の上下、喉の動き、瞳孔の反応。
次々と確認していくうちに、顔つきが変わった。
「……脈はある」
「呼吸も落ちた。ひとまず、越えた」
張り詰めていた母親が、崩れ落ちるように寝台へ縋りついた。
声を殺して泣き始める。
指先が、娘の手を何度も何度も撫でた。
レッターが、はっと息を吐いた。
「……よかった……」
助手まで、目元を押さえていた。
店主が、空になった小瓶をサイドテーブルへ置く。
コト。
「……効いたな」
母親の手が、娘の頬に触れた。
ひやりとしない。
そのことに、肩が震えた。
声にならない息が漏れて、
そのあとで、ようやく振り向いた。
「娘を救ってくださって……ありがとうございます……!」
店主は頭を掻き、隣に立つメテスの肩へ手を置いた。
「礼を言うなら、こっちにもだ」
メテスは何も言わない。
だが、肩に置かれた手を振り払わなかった。
リヒャルトが、母親へ微回復ポーションを差し出す。
「治療費は、領主代理殿よりすでに頂いております。こちらの部屋で快復するまで、どうぞお休みください」
母親が目を見開いたまま、小瓶を受け取る。
「……っ、ありがとうございます……領主様にも……!」
医療長は黙ったまま、自分の腹を押さえた。
金色の小瓶の残りを、親指で確かめる。
寝台の娘を見た。




