特異な目が視た、編み上げられる絶望。
西の森。
木漏れ日が遮られた薄暗い獣道を、音もなく進む。
背に負った大盾が、枝葉を掠めることすらない。
軽装甲に身を包んだメテスは立ち止まり、静かに息を吸った。
空気が、ひどく重い。
鉄が錆びたような血の匂いと、焦げたような魔力の残り香。
忌み子の目にだけ、空間へこびりつく異様な色の残滓が視えていた。
気配を完全に殺し、痕跡の先へ向かう。
太い樹木の陰に身を潜め、開けた広場を見下ろした。
「……っ」
無意識に、剣の柄を握る手に力が入る。
冷たい金属の感触が、手のひらに食い込む。
見間違えるはずがなかった。
あの匂いも、あの魔力の濁りも、無理やり削り取られたような身体の痩せ方も。
かつての俺と、同じだった。
広場の中央。
無残に縛り付けられていたのは、俺と同じ、異常な魔力を持つ忌み子だった。
魔力を抽出されすぎたのか、もはや原型を留めていないほどに壊れ、ただ虚ろに浅い呼吸を繰り返している。
その先にある異常だけは、見落としようがなかった。
忌み子の身体から滴り落ちる血が、地面に溜まらない。
魔力をたっぷりと含んだ黒ずんだ血が、生き物のように土の上を這い回る。
幾何学的な線を描き、おぞましい陣を成していく。
自分が縋るように手を伸ばした転移陣に、どこか似ている。
それでも、もっと歪で、吐き気がするほど汚い。
陣が、心臓の鼓動のように明滅する。
黒ずんだ血が泥と混ざり合い、蠢き、四つ足の異形を編み上げていく。
『……ふむ。この流れ出た魔力で、魔物を生み出したり引き寄せたりする実験がしたかったのですよ』
あの時、肉壁にされた俺の血で笑っていた研究員の声が、今さら耳の奥で蘇った。
……成功したのか。
柄を握る手が、微かに震える。
今すぐ飛び出し、あの醜悪な陣を叩き斬り、同胞を解放する力は、今の俺にある。
腹の底で、全部を潰せと魔力が唸った。
『……頼めるか?』
低く、重い声が脳裏に落ちる。
『……万が一用だ。逃げることを優先しろ』
あの無骨な手つき。
投げて寄越された小瓶の重さ。
当然のように任せてきた声。
俺は、もう壊すための道具じゃない。
守るための、盾だ。
感情を殺し、広場から距離を取った。
今ここで持ち帰るには、まだ足りない。
どこから血が運ばれ、どこで魔力が補充され、どれほどの間隔で魔物が編まれているのか。
盤面を崩さずに読むには、時間が要る。
少なくとも、一晩は張る必要があった。
樹上へ身を滑り込ませる。
葉の陰。
太い枝の影。
風下。
位置を変えながら、気配を殺す。
夜が落ちた。
月明かりの下では、昼には視えなかったものが、なおさらよく視えた。
忌み子から滴る血が、陣の線に沿って鈍く脈打つ。
地面へ染みるのではない。
吸われ、巡り、編み上げるために使われている。
深夜、二人。
明け方前、三人。
黒布で覆った桶を運ぶ人影。
血の匂い。
魔力の濁り。
見張りの位置。
交代の間隔。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
呼吸を殺したまま、数を刻む。
編み上がった魔物は、その場で放たれない。
いったん奥へ引かれ、溜められている。
群れとして吐き出すつもりだ。
忌み子の衰弱も、もう長くは持たない。
血と魔力の減り方から見て、次の大きな波まで三日か四日。
それまでに潰さなければ、森はもう一段深く腐る。
夜露が肩に落ちる。
腹は空いていた。
喉も乾いていた。
だが、動かない。
わずかに目を伏せた。
逃げるためじゃない。
戻る。
持ち帰る。
そのためだ。
夜明け。
森の空気が少しだけ緩んだ瞬間、別の踏み荒らし跡を見つけた。
複数。
人間。
重さの違う足音。
本隊とは別口。
樹上を移る。
追う。
接触はしない。
ただ視る。
太陽が高く昇っても、まだ追った。
日が傾き始める頃になって、ようやく相手の輪郭が見えてきた。
そこで見つけたのが、以前ルナとネスを「引き取る」と言い出した貴族たちだった。
数人の護衛を連れた、初老の男たち。
見覚えがある。
配当金を持つ二人を狙っていることは知っている。
特異な目は、男たちの靴底や外套の裾にこびりつくそれを見逃さなかった。
同じ匂いがする。
同じ手つきだ。
あの広場で魔物を編み上げていた陣の残滓と、まったく同じ汚れが、男たちの全身に薄く纏わりついていた。
役割はわからない。
だが、同じ盤面だ。
王都の病。
森の魔物生成。
ルナたちを狙う貴族。
別々に見えていた悪意が、同じ濁りで繋がっていた。
メテスは樹上から、音もなく暗い森の底へ降り立った。
魔力で気配と足音を完全に殺す。
いち早く、俺の帰る場所へ。
この重すぎる真実を、あそこへ持ち帰るために。
獣道を一陣の風となって駆け抜けた。




