絶対に墓場まで持っていく。
泥眠に沈んでいた少女が、ゆっくりと、その瞳を開いた。
「――っ!」
覚醒した直後。
彼女を真っ先に襲ったのは、薄い壁の向こうから響く怒号と、濃い血と薬草の匂いだった。
ビクリ、と。
少女の細い肩が、弾かれたように跳ねる。
焦点の合わない瞳が激しく泳ぎ、ひゅっ、ひゅっと浅い呼吸を繰り返す。
何かに怯えるように、毛布を握りしめたまま、震える目で部屋の隅、天井、そして扉の下の隙間を何度も何度も探っていた。
羽音を探しているのだ。
「……大丈夫。いない」
アルテルナが、なるべく刺激しないように、静かな声で言った。
だが、少女の震えは止まらない。
言葉だけでは、あの地獄の恐怖は拭えない。
ゲッセネスが無言で動き、寝台の下を覗き込ませた。
部屋の四隅を指差し、毛布の裏をめくり、最後に扉の周りまですべて見せて回る。
「……ほら。この部屋には、一匹も入れてない」
ゲッセネスの静かな証明に、少女はすがるように目を走らせ、数秒の硬直のあと、ようやく微かに息を吐き出した。
だが、安堵は一瞬だった。
「……あ」
少女の手が、ゆっくりと後頭部へ伸びる。
そこには、治癒魔術で塞がれつつも、芯に鈍い痛みが残っているはずだ。
「……いた、い」
その一言で、アルテルナの喉がヒュッと鳴って詰まった。
「逃げて……虫が、たくさんいて……それで……急に……」
少女は混乱したまま、途切れた記憶の糸を手繰り寄せる。
凄まじい衝撃。弾け飛んだガラスの音。強烈な匂い。
そこから先だけが、真っ黒に抜け落ちている。
(思い出しちゃダメだ!)
アルテルナは、顔の引きつりを必死で隠しながら、懐から小瓶を取り出した。
「こ、これ、飲んで!
揺り籠ポーション。怖いの、少しだけ遠くなるから!」
それは、アルテルナとゲッセネスも一度飲んだことのある薬だった。
記憶を消すわけじゃない。
ただ、暴走する恐怖だけを切り離して、息をつける場所まで無理やり引き戻す。
その効き目を、二人は身をもって知っている。
ゲッセネスも即座に反応し、特製回復ポーションのコルク栓を素早く抜いて少女を支え起こす。
少女は怯えた目で二人を見た。
だが、自力で立てる状態ではないと本能で悟っているのか、震える両手で小瓶を受け取った。
コク、と喉が鳴る。
揺り籠ポーションが胃に落ちた瞬間、少女の瞳から、パニックの濁りがふっと引いた。
呼吸が落ち着き、強張っていた肩の力がゆっくりと抜けていく。
続けて飲んだ回復ポーションが、指先にわずかな体温と力を戻していった。
「……ここは、どこ」
凪いだ瞳で、少女が問う。
「安全な場所」
「誰が、わたしを」
アルテルナは一瞬だけ言葉に詰まった。
だが、決して目を逸らさなかった。
「森で虫に囲まれてたあなたを、こっちで助けたの」
それは事実だ。
ただ、その瓶がどう使われたか、その核心だけは綺麗に伏せた。
少女の眉が微かに寄る。
パニックが引いたことで、ごまかしの効かなくなった後頭部の違和感へ、ゆっくりと指先が伸びた。
「なにか……凄く硬いものが、当たった、気が……」
アルテルナの心臓が、嫌な音を立てて跳ね上がる。
(ばれる……!)
「倒れた時に、打ったんじゃないかな」
静かな声が、スッと差し込まれた。
ゲッセネスだった。
表情ひとつ変えない。
瓶が直撃した原因だけを伏せ、
地面に倒れ込んだという事実だけを、推測のように差し出した。
アルテルナも、反射的にその言葉へ乗っかる。
「そ、そうだよ! 虫から夢中で逃げてたんでしょ!?
木の枝とか、何が当たってもおかしくないし!」
少女は二人を交互に見つめた。
揺り籠が効き始めたのか、少女はそれ以上、無理に記憶を掘り返そうとはしなかった。
その代わり、今度は現実的な不安が少女を襲う。
「……外に、誰がいるの」
怒号。呻き声。慌ただしい足音。
防音のない壁の向こうの喧騒に、少女はまた肩を抱いて強張らせた。
「怪我人」
アルテルナが短く答える。
「今、外はすごく混乱してる。……でも、この部屋までは絶対に入れない」
ゲッセネスが、扉の前に立ち塞がるようにして続けた。
それでも。
少女は、見知らぬ場所で目覚めた不安に耐えきれなかった。
そろり、と。
細い指先が伸びてきて、アルテルナの袖を、ぎゅっと掴んだ。
そこには、王家の姫君として張りつめた顔はなかった。
ただ、得体の知れない恐怖から逃げて、やっと見つけた温もりに縋り付く、心細い女の子の手つきだった。
「……本当に」
袖を掴む手に、力がこもる。
潤んだ瞳が、アルテルナを真っ直ぐに見上げていた。
「本当に、ここにいれば、大丈夫……?」
その切実な問いに。
アルテルナは、一瞬だけ呼吸を忘れた。
自分が、全力で瓶をぶつけて意識を刈り取った相手だ。
ここに連れ込んで、この地獄のすぐ裏側に隠している相手だ。
本来なら、絶対に「大丈夫」なんて無責任に言える立場じゃない。
罪悪感で、喉の奥が焼けるように熱くなった。
(でも、放り出さずに連れて帰ったのは正解だ)
店主の言葉が、背中を押す。
アルテルナは、少女の震える手に、自分の小さな両手をそっと重ねた。
「……大丈夫」
嘘はついていない。
ただ、一番大事なところだけは、墓場まで持っていく。
だからこそ、これだけは絶対に守り抜くと決めた。
「大丈夫だよ。……今は、私たちがいるから」




