伽耶滅亡
伽耶滅亡
大伴金村が、伽耶の地の一部を百済に委ね、それをみた新羅が残りの伽耶の地を強引に併合してからもう幾年が過ぎている。
高句麗の南下圧力に苦しむ百済は、自国の防衛線を強化するため、伽耶の西域(現在の全羅道付近)にある上哆唭・下哆唭・娑陀・牟婁の4つの地域の共同統治権を求めてきた。百済からの見返りは、朝貢とそれらの地からの収穫の納付である。しかしこれは、地理的条件からしても実質的な割譲の要求であった。
それは、新羅にとってはヤマトの裏切りであり、身内を他国にちぎり取られたに等しかった。それならばいっそと、強引に残りの地を完全なる併合に走るのは至極当然の反応と言えた。それを読み切れず、身内を他国に売り飛ばしたと責められて大伴金村は失脚する。仇敵同士であった百済と新羅が、高句麗からの圧力に対抗するために羅済同盟を結び、両国の対立は一時的に収まっているとはいえ、この実質的な割譲は、確かにやり過ぎではあった。大伴金村が独断でこのような真似をできるはずもない。合議で決まったことでも結果が悪ければ首魁が責任を取らされるというのは、今に始まったことではない。
その後、何度も新羅に使いを出して、余計なことをするなと戒めるが、戻ってくれば元の木阿弥、結局、新羅がすべてを併合し、半島における直轄地の勢力はここに姿を消すのである。
そして、欽明帝は死の間際に、こう言い残す。
「今我病甚。以後事属汝。汝当打新羅。封建任那。復造夫婦。如旧如初。則我死無恨。」
―今、我が病は重く、後事を託す。お前は新羅を懲らしめ、任那を建て直し、前のように夫婦のごとき親密な関係に戻すように。これを行えば、私は恨みなく死んで行ける。と。―
そして時は下り、泊瀬部皇子が消去法的に大王となる。




