煩悶
「守屋を連れ戻した者を、次の大王とする。ただし、失敗すれば直ちに討つ」
額田部皇女が下した冷徹な決断は、朝堂に集う皇子たちの前に、あまりにも巨大で危険な賭けとして示された。大王の座という至高の栄誉の裏には、失敗すれば即座に命すら危ういという、底知れぬ深淵が口を開けている。
煩悶
誰が立つか。皇子たちの間で緊迫した駆け引きが始まる。
難波皇子が動く。敏達朝を支え、若き武才を謳われた彼は、血気盛んに一歩前へ踏み出した。
「物部の大連は、我が兄敏達の大王の御代においてともに武を担った男。なれば、この私が自ら渋川へ赴き、大王の遺徳をもって説得いたしましょう! 大連とて、私の言葉を無下にすることはできぬはず!」
難波皇子の言葉には自信がみなぎっていた。守屋を動かすには、同じく武を重んじた敏達朝の血統にこそ利があると踏んだのだ。推す臣たちも、さすがは次期大王の器とばかりに昂然と胸を張る。
その熱を冷ややかに遮る男がいた。異母兄である泊瀬部皇子である。
泊瀬部皇子はふっと鼻で笑うと、難波皇子を鋭く睨みつけた。
「ふん、若気の一至だな、難波よ。そなたが行けば、守屋は、敏達の世の排仏の詔を忘れたかとそなたを言いくるめ、むしろそなた自身が奴に取り込まれるのが関の山。大連が恐れるのは、武の通じぬ相手、そしてこの国の真なる血統よ。欽明の大王の正統なる血を引くこの私が赴いてこそ、守屋は己の傲慢さを恥じ、跪くであろう。」
この二人を、静かに見つめている本命がいる。
大王の座に最も近いと目される敏達帝の長子、押坂彦人大兄皇子である。
彦人大兄皇子は、二人が言い争う様子をじっと見つめながら、深く思考に沈んでいた。
かつて自分を中臣に呪詛させていたのは、守屋ではなかったか、そのような者をなぜ説得して連れ戻す必要があるのか。勝海を屠ったように、守屋も誅すればよいだけではないか。ー我は許さぬー
彦人大兄皇子はすっと息を呑み、静かに身を引いた。
「……私は行かぬ。ただ、征かれる皇子たちを守り、不首尾の砌には守屋を誅するに腕の確かな者を就けましょう。」
彦人大兄皇子の表明に、この皇子を推すものは落胆の色を隠せない。だが、かつて己を呪詛までした相手を説得するなど、大王の座を捨てても許すことのできない皇子の気持ちは痛いほどわかる。




