呪詛
呪詛
盆地は、ねっとりと生暖かく靄に包まれていた。都に吹き荒れる悪瘡の嵐は、時の大王橘豊日尊をも襲う。
私邸の薄暗い小部屋で、灯がかすかにゆらぐで。
中臣連勝海は、血走った眼で、並べた木像を一体ずつ睨みつける。 その木像が模しているのは、穴穂部の対抗馬として最も有力と思しき皇子たち。敏達天皇の第一皇子である押坂彦人大兄皇子、そして同じく敏達天皇と額田部皇女との子である|竹田皇子。
「……天つ神よ、国つ神よ。我らに徒名すものを除きたまへ、命を縮め、呪い殺し給え……!」
勝海は、呪詛の言葉を吐き散らしながら、細く尖った杭をもって木像を激しく苛む。カン、カン、と静まり返った夜の帳に、鈍い音が響き渡る。排仏を叫ぶ彼らは、瘡の流行りを神の怒りと喧伝して、蘇我を追い落とせるつもりでいた。
だが、思わぬ事態で、風向きは逆風へと変わる。
「三宝に帰依したい」という大王の一言が、すべてを覆してしまった。
あろうことか、大連までが我を忘れて、大王は病で気が狂ったのだなどと叫んでしまう。
「もはやこれまでだ! 我らは朝敵となってしまった!」
顛末を知らせる密偵の報告に、勝海の手から呪詛の杭がすべり落ちた。大連はすでに、自らの本拠地である河内へ逃げ戻ったという。
「大連が……逃げただと……?」
中臣は孤立無援となった。大連に摺り寄り、権力の高みに上ろうとしたこの男の夢は、一瞬にして幻となった。神が捨てられ仏が祀られるなら、祝詞を奏上し祭祀を司る彼は役割を失う。排仏を煽動した彼が、地位を失うばかりか、大連の不用意な一言で逆賊の汚名までも被るであろうことは瞭然だった。
「死にたくない……。中臣を、ここで終わらせるわけにはいかぬ……!」
呪詛など続けている場合ではなかった。仮に呪詛が効いたところで、もはや何の意味もない。
勝海はなりふり構わず生き残りを賭けた行動に出る。昨日まで呪いの杭を打ち込んでいた、次の大王として最有力の候補となった、あの押坂彦人大兄皇子の水派宮へ。
水派宮の重い扉が開く。勝海は床に額をこすりつけ、震える声で阿る言葉を絞り出した。
「皇子……! どうか、どうかこの愚かな勝海をお許しくだされ! 排仏を唱えたは、すべては我が身可愛さの身勝手がこと! 大王の御心に違える気など毛頭なく、心を入れ替え仏法に精進いたしますゆえ、なにとぞお執り成しを乞い奉りまする!」
かつて神事を司り、昂然と仏教を排斥していた男の、見る影もない命乞いの姿であった。皇子は表情を変えず、ただ黙ってその哀れなあがきを見つめていた。
「……分かった。考えておこう。然らば、追って沙汰するゆえ一度下がれ。」
勝海は何度も頭を下げながら、這うようにして邸宅を後にした。皇子の宮を出て、他に行くべきところはないかと迷い歩く彼の足取りは重い。
うつむきそぞろ歩く勝海の前に、道の脇の生い茂る槻の木陰から、一人の男が音もなく滑り出てきた。
鋭い眼光。身軽な体躯。皇族の警護を務める武人、迹見赤檮であった。
勝海が声をあげる間もなく、赤檮の手に握られた刃が、夕闇の中で鋭くきらめいた。
「中臣連勝海。二心を抱く狐め。往ぬが良い」
「待て、私は仏を祀ると――」
言葉は最後まで続かなかった。赤檮の刃が勝海の心の蔵を刺し貫く。
ドサリ、と地面に倒れ伏す勝海。その目は、自分がかつて呪詛のために切り刻んだ木像と同じように、光を失い、虚ろに見開かれていた。




