哀しき傀儡子
哀しき傀儡子
「皇子、大王は気弱にて、さほど長くはもちますまい。貴方様が次の大王になられますのも、あと少しのことかと存じます。」
ほの暗い私邸の奥で、物部守屋と中臣勝海が、穴穂部皇子の前に平伏していた。
「ほう……。確かにわしが次の大王になれるのであろうな?」
「排仏を進められるのはあなた様をおいて他に誰がおりましょうや、われらが推しますゆえ、間違いなく玉座はあなた様のものにございます。」
その言葉を聞き、穴穂部皇子の顔が下品に歪む。野心ばかりでろくに現実を見ようともしない、蘇我の血を引きながら蘇我から見放された愚かな男。
「馬子め、いつもわしを鼻であしらいおって……。私が大王になった暁には、蘇我の連中など一人残らずひざまずかせてくれるわ!」
穴穂部皇子は、並み居る臣下がことごとく己に傅く姿を思い浮かべ、大げさに衣の袖を翻して高笑いした。大王に仕立てられるということが、どういうことかということなど、まったくわかっていない。
それでも、守屋にも勝海にもこの男しか選択の余地はない。仏教に帰依するとまで明言してしまった橘豊日尊(用明天皇)が崩御したのち、この穴穂部皇子を次の大王に即位させなければ、排仏派は逆賊として文字通り息の根を止められてしまう。彼らが失地を回復するには、この男を大王に祭り上げ、その権威を使って蘇我馬子を朝敵として誅殺する道しか残されていない。
この皇子は、彼らにとっても質の悪い手駒に過ぎなかった。だが、現実を知らない皇子は、もう自分が大王になった気分で、浮かれきっている。
すっかり気分を良くした穴穂部皇子は、守屋らが止めるのも聞かず、自らの立場をさらに盤石なものにでもできると思いついたのか、とんでもなく馬鹿な真似をしでかしてしまう。
ー訳語田(敏達天皇のこと)の皇后であった額田部をおさえればよい。あの姉がうんといえば、誰も私の即位に文句は言えまい!」
それは、前代未聞の暴挙でしかなかった。異母兄弟であるとはいえ、先代大王の殯宮に押し入るなどあってはならない不敬である。
額田部皇女が籠もる殯宮(遺骸を安置し、親族が喪に服す場所)へと強引におしかけた穴穂部皇子は、酒の勢いも手伝ってか、完全に正気を失っていた。
「開けい!穴穂部が参ったのだ! 姉上、顔を見せよ!」
松明の炎に照らされた穴穂部皇子は、静粛であるべき場であることも忘れ、大声を張り上げて門を叩く。
しかし、そこに立ちはだかったのは、三輪逆であった。
「皇子、ここは殯宮にございます。たとえ皇族といえど、夜間に武器を持って入ることは許されませぬ。お引き取りくだされ!」
「黙れ、無礼者め! わが姉に会うのに何の遠慮がいる! 誰かこの不届き者を斬り捨てい!」
穴穂部皇子は顔を真っ赤にして喚き散らす。しかし、その痴態に呼応するものなどいるはずもない。
結局、門を破ることができず、みっともなく引き下がった穴穂部皇子。しかし、彼の怒りは収まらない。数日後、彼は勝手に物部守屋の兵を動かし、自分に恥をかかせたという私怨だけで三輪逆を殺害させてしまう。
この、皇子の暴挙は、蘇我馬子にとって中臣勝海や物部守屋が担ぎ出そうとしている大王候補を消し去るための絶好の口実でしかなかった。
蘇我の血を引きながら、それどころか先代、先々代の大王の異母弟でありながら、次期大王候補に挙げられる資格すらない愚かな男。額田部皇女は、用明帝危篤の報を受けるや直ちに穴穂部誅殺の密勅を下す。
用明帝崩御の翌月。
野壁の王哀しき策謀の末に
「皇子、大王は気弱にて、さほど長くはもちますまい。貴方様が次の大王になられますのも、あと少しのことかと存じます。」
ほの暗い私邸の奥で、物部守屋と中臣勝海が、穴穂部皇子の前に平伏していた。
「ほう……。確かにわしが次の大王になれるのであろうな?」
「排仏を進められるのはあなた様をおいて他に誰がおりましょうや、われらが推しますゆえ、間違いなく玉座はあなた様のものにございます。」
その言葉を聞き、穴穂部皇子の顔が下品に歪む。野心ばかりでろくに現実を見ようともしない、蘇我の血を引きながら蘇我から見放された愚かな男。
「馬子め、いつもわしを鼻であしらいおって……。私が大王になった暁には、蘇我の連中など一人残らずひざまずかせてくれるわ!」
穴穂部皇子は、並み居る臣下がことごとく己に傅く姿を思い浮かべ、大げさに衣の袖を翻して高笑いした。大王に仕立てられるということが、どういうことかということなど、まったくわかっていない。
それでも、守屋にも勝海にもこの男しか選択の余地はない。仏教に帰依するとまで明言してしまった橘豊日尊(用明天皇)が崩御したのち、この穴穂部皇子を次の大王に即位させなければ、排仏派は逆賊として文字通り息の根を止められてしまう。彼らが失地を回復するには、この男を大王に祭り上げ、その権威を使って蘇我馬子を朝敵として誅殺する道しか残されていない。
この皇子は、彼らにとっても質の悪い手駒に過ぎなかった。だが、現実を知らない皇子は、もう自分が大王になった気分で、浮かれきっている。
すっかり気分を良くした穴穂部皇子は、守屋らが止めるのも聞かず、自らの立場をさらに盤石なものにでもできると思いついたのか、とんでもなく馬鹿な真似をしでかしてしまう。
ー訳語田(敏達天皇のこと)の皇后であった額田部をおさえればよい。あの姉がうんといえば、誰も私の即位に文句は言えまい!」
それは、前代未聞の暴挙でしかなかった。異母兄弟であるとはいえ、先代大王の殯宮に押し入るなどあってはならない不敬である。
額田部皇女が籠もる殯宮(遺骸を安置し、親族が喪に服す場所)へと強引におしかけた穴穂部皇子は、酒の勢いも手伝ってか、完全に正気を失っていた。
「開けい!穴穂部が参ったのだ! 姉上、顔を見せよ!」
松明の炎に照らされた穴穂部皇子は、静粛であるべき場であることも忘れ、大声を張り上げて門を叩く。
しかし、そこに立ちはだかったのは、三輪逆であった。
「皇子、ここは殯宮にございます。たとえ皇族といえど、夜間に武器を持って入ることは許されませぬ。お引き取りくだされ!」
「黙れ、無礼者め! わが姉に会うのに何の遠慮がいる! 誰かこの不届き者を斬り捨てい!」
穴穂部皇子は顔を真っ赤にして喚き散らす。しかし、その痴態に呼応するものなどいるはずもない。
結局、門を破ることができず、みっともなく引き下がった穴穂部皇子。しかし、彼の怒りは収まらない。数日後、彼は勝手に物部守屋の兵を動かし、自分に恥をかかせたという私怨だけで三輪逆を殺害させてしまう。
この、皇子の暴挙は、蘇我馬子にとって中臣勝海や物部守屋が担ぎ出そうとしている大王候補を消し去るための絶好の口実でしかなかった。
蘇我の血を引きながら、それどころか先代、先々代の大王の異母弟でありながら、次期大王候補に挙げられる資格すらない愚かな男。額田部皇女は、用明帝危篤の報を受けるや直ちに穴穂部誅殺の密勅を下す。
用明帝崩御の翌月。
宅部皇子と密談に耽る穴穂部皇子の館を、佐伯連丹経手率いる討伐軍が取り囲む。同行するのは、土師連磐村、的臣真噛らである。為すすべなく討たれる穴穂部、その場からは逃げた宅部皇子も翌日討ちとられる。
中臣勝海や物部守屋に担がれ、政の何たるかも知らぬ哀れな操り人形の、それが哀れな末路であった。




