波乱の幕開
波乱の幕開
天国排開広庭尊(欽明天皇)が群臣を前に開陳したのは、百済から届いた金銅の釈迦如来像と、幾巻もの経典であった。
「この見事な御姿……我が国でこれを礼拝すべきか否か、汝らどう思う。」
待ち望んだ時がついにきた。大臣蘇我稲目は静かに目を輝かせた。二上山の麓で土と水を操り、屯倉を広げていく稲目には、それは単なる美しい塑像ではなかった。人があるべき姿、人がそうありたいと願う姿の映し絵がそこにある。それは、確固たる拠を持たないこの寄せ集めの国に一本の心柱を通すのに、何よりふさわしいと思われる。
「礼拝すべきです。西の国々はみな従っております。」
稲目は進み出て奏す。
だが、大連物部尾輿は憮然として言う。
「我らはそれぞれのクニの神を均しく祀ってきた。そうでなければ国が荒れる。それを異国の神を入れるなど、その国の臣下に成り下がるということではないか、そのようなこと決してあってはならぬ。」
稲目を除けば、神と仏の違いも判らぬのである。話がかみ合わないのも無理はなかった。真っ二つに割れたそれぞれの主張がまとまる見込みがないことを悟ると、大王は、苦肉の策として判断を先送りする。
「では、稲目に授けて、試みに礼拝させてみよう。皆それでよいな。」
私人としての密かな研究が、公認されたのである。稲目は、悦びてこれを引き受け、自らの家を浄めて最初の寺とした。
だが、稲目にも予想もしていなかった事態が起きる。百済から持ち込まれたものであろうか、都に凄まじい疫病が流行り、民は肌に瘡を発し、高熱に爛れて次々と倒れていく。
「それ見よ!妖しき 異国のものを軽々に持ち込むからこういう始末になるのだ!」
執拗に排仏を迫る物部尾輿に対して、大王もやむなく排仏の詔を与え、尾輿はこれ幸いと、蘇我の寺へと闖入する。尾輿の手勢は仏像を容赦なく叩き壊し、ナニワの堀江へと投げ捨てる。それはあまりに粗略な暴虐であった。再び仏教は、稲目の密かな研究の対象へと戻る。
そして時が流れ、代は蘇我馬子と物部守屋へと移ってゆく。
これは、外交と内政の方針を巡る高度な政治的対立でした。明治期ならいざ知らず、国家神道などというものの存在しないこの時代に、宗教戦争などという概念などありません。ですが、仮にこれが仏教ではなく、キリスト教であったら、稲目は歯牙にもかけなかったでしょうし、尾輿の反応が正しいと誰もが認めたことでしょう。




