幻の女王
幻の女王
魏の満額回答を得て、また帯方郡から返礼と視察の使者を伴ってナシメたちが帰国するのは翌年のことである。帯方郡からとはいえ、中華の役人が海を渡ってくるのはこれが初めてのことになる。
その彼らは、イトに留め置かれ、一歩も出してもらえない。
詔書と印綬を携えてきた梯儁らを、ヤマトの都に連れて行こうともしないばかりか、この国の実情を測りたい彼らの思惑にも気づかぬふりをして、のらりくらりと躱すのも、端からの算段である。
「貴国の都でそなたらの王との直の謁見は叶いませぬのか?」
不快の色を出さぬよう、梯儁は慇懃に尋ねる。
「我らも洛陽までお連れいただいたからには、そうしたいのはやまやまではあるのですが、」イトは誠にすまなそうに言葉を濁す。
「何ぶんにも、帯方郡から洛陽までの道程にくらべても、我らが都ははるか遠く、しかも海をふた月もゆかねばならぬのです。さらにそこから陸路でひと月。我らとて命がけ、そうまでしてお連れするのはあまりに危のうございます。どうしてもと申されるなら、それなりの支度をしてということにもなりますが。」
「どのようにして行かれるのか?それほど危ういというのは海か?」
「はい、ここからまず南へ陸伝いに下り、と、そこまではさほど。ただその後、駄々広く島影もない大海を風と潮だけを頼りにひたすらゆかねばなりません。しかも我が国には馬がおりませぬゆえ、陸路はひたすら歩くほかはないのでございます。」
「それは難儀なこと、われらとてもそこまでは行けそうもない。ではすまぬが、代わりにこの辺りだけでも案内してはいただけまいか?」
「それなら易きこと。海を渡らぬところであれば、すぐに行けまする。」
「つまり、ヤマトという宗主国が、案内いただいた国々をよく束ねているということなのですね。」
「その通りにございます。ヤマトのヒメミコ様の詔にみな従いまする。」
「ミコトノリとは?」
「ご神託とも申しましょうか。神の言葉を告げるが如く正しきものでございますゆえ、皆喜んで従うのでございます。」
「そのヒ・ミコ様が女王で、王はおらぬと?」
「なかなか説明が難しいのですが、いまは女王がひとり。ヒコを弟が務めております。」
「ヒコとは何ぞや?どういう仕組みで国を治めておるのですか?我らとも韓とも大いに違うような。」
「ヒメは、人に姿を見せません。ミコトノリはヒコのみに伝え、ヒコがそれを触れ回り、我らを動かし、国々を従わせまする。」
「なるほど、そのような仕様は古からの決まり事なのですか?」
「かつてはヒメがおらぬこともありましたが、そのときに限ってなぜか国が乱れまする。故に、此度もヒメを立て、ようやくこの国の乱れがおさまったのでございます。」
ヒコを亡きものとしても、代わりはいくらでもいる。ヒメを消しても、ヒコがいれば政は回し、こちらも代わりはいくらでもいる。そもそもヒメは人前に姿を現さず、ヒコを除いては誰も真の姿を知らない。本当にいるのかどうかすら定かでない。故に、どちらかが生きていると言い張る限り、威光が大きく揺らぐことはない。一人の王で成る国は、王を挫けば簡単に滅ぼすことができる。
―これは滅ぼすことが難しい恐ろしくよくできた国だ。―梯儁の背筋に冷たいものが走った。
「ところで、少々気になっていたのですが、」
梯儁は平静を装って、話題をそらす。
「何でございましょうや?」
「我らのやり取りを記す文官がおらぬようだが、女王にはどうやってお伝えするのでしょう?逆にミコトノリもどうやって諸国に伝えておるのですか?」
「不思議なことに、我らはみな同じ言葉を話しますゆえ、字を用いなくとも伝えるは易く。また字は敵に悟られる畏れもあり危ういので、大事こそ口伝えで覚えめでたきものだけがする決まりとなっております。」
「文字は用いぬと?」
「言葉の通じぬものであれば、漢の字を用いますゆえ、障りはございません。ただ、」
「なにか懸念があると?」言い澱んだ言葉尻に梯儁が反応する。
「ここから南に、言葉も違い、字も解さぬ、クマというまつろわぬ者共が棲んでおります。」
「それと諍いがあると申されるか?」
「時に。それゆえ、韓にばかり力を裂けず困っておるところなのです。貴国に韓を鎮めていただければ、われらもクマへの守りに専念できますため、重ねてお願いする次第でございます。」
本当のところ、クマが攻めてくることなどないし、そもそもさほどのかかわりもないが、半島に兵を出さない言い訳としては、まあつうじるかもしれぬ。そもそも弁韓から兵が出れば、それも倭の兵なのだから、いくらでも誤魔化しようはある。
一つの嘘もないが、一つの真もない。
中華の大国をも踊らせる、空前絶後の大芝居であった。




