懐柔
懐柔
キの川を遡上し、丹の拠点となっているヨシノ、ウダを抜けると、そこは、もうヤマトの裏手であった。とはいえ、大池とも沼ともつかぬ水辺に、数軒の建屋があるばかりで、まだ造りかけといった田がこれもわずかばかりあるだけである。それでも、ここから流れ出る川を下れば、一気に二上山の麓を抜けてナニワの津へと到達する。
イコマの山麓では、ナガスネヒコの兵たちが、イワレの頼みどおりに愚直に囮役をこなす船団を追い返しては、そのたびに勝ち戦に沸いている。かれらこそ、この二上山から切り出されたサヌカイトを割り、鏃や刃を作り続けてきた古の一族であり、その技術は鉄の時代となっても鉄の加工に活きている。彼らの武の源はまさにその歴史にあった。
だが、イワレの目は、その背後にいるナニワの津の真の支配者、ニギハヤヒを捉えている。
「シイネツよ、そなたニギハヤヒに会えるか?」
「彼らが油断している今ならば可能かと」
「では頼む。『我らは、水際では一度負けたが、他所からすでに陸に上がった。ふたたび闘うか? それとも矛を収めるか?』と。」
「して、その先を問われたら何と?」
「『これは、高天原の意志ぞ。』とな。それでわかろう。」
夜、ニギハヤヒの寝所にシイネツが忍び入る。
「……ニギハヤヒ殿。我らは、舟で来た故に頭にウサを立てているが、キビもアキも兵を出している。すでに陸に上がった今、もはや我らの数がものを言うであろう。」「闘うか? それとも矛を収めるか?」
ニギハヤヒは、闇に海人族の長を見とがめると、あえて目をそらして、低く問い返す。
「我らが退かねば、そなたらこそ、闘うつもりか?」
「闘うであろうな。望みはせぬが。」
闘えばどちらも無傷ではいられない。勝ったものも負けたものも疲弊し、そころ新たなものに取って食われるのがオチで、互いに何の利もない。血を流してこの地を荒廃させれば、ヤマトの立ち上がりはさらに遅れてしまう。それは誰も望まぬ愚挙でしかない。シイネツはニギハヤヒの眼の奥にある、すべてを理解しているはずの冷徹な知性を見据えて、託された一言を静かに告げた。
「そもそも、もうわかっておられるのではあるまいか? ……これは、『高天原の意思である。』と。」
ニギハヤヒは、目を閉じて深く息を吐いた。やはりすべては、高天原の思惑で動いていたのだ。彼らがアカシのセトを素通りできたのも、ウサやキビどころか、サヌキもアワも瀬戸内がみな手を組んでいたからなのだ。
「……よく分かった。われらとてもとは同根。高天原の意志ならば、逆らう道理もない。……ただ、な。」ニギハヤヒは目を開け、鉄剣を静かに引き寄せた。「われらの後ろにはタンバもオウミもおる。すんなりと手を切れる相手ではない。」
「では、われらにどうせよと?」
「せめて、われらが戦って負けた、ことにでもせねば、な。」
「それはまた、難儀なことを言われる。」
「そのくらいはお付き合い願わねば困る。みなまでこちらで飲めるというものでもなかろう?」
もはやシイネツに出せる答えではない。
「主に伝えまする。ではこれにてご免。」
ニギハヤヒは天を仰ぎ、ふぅと息を吐いた。
「ヤマト、か。」




