逃亡
逃亡
イズモの船団が、ノトを越える潮を捉えるために、まずサドの島へ、そして西へと進路をとる。岸辺が遠ざかるのを見届けながら、ヒメは静かに息を吐いた。これで翡翠の聖域は守られる。他者を遠ざけるために、そこには恐ろしく呪われた、決して近づいてはならない厭川だと触れ回った。されど、その奥に他に類を見ないの宝の原石を隠したその川は、コシの聖域として優しく秘められた秘め川であった。
夜、イズモの兵たちが交渉の成功と美しいヒメの獲得に酔いしれ、宴の酒の酔いを残して緩んだその刹那を逃さず、ヒメは動いた。
最初の一握から削り出された、最も深く青い翡翠の珠だけを抱き、ヒメはうす闇の迫る暮れの北つ海へと音もなく飛び込んだ。冷たい波間を泳ぎ切り、たどり着くのは、イズモの手前に切り立つ断崖が立ちはだかる親不知の海岸である。
「ヒメが消えたぞ! 追え!」
夜明けと共に船団は混乱に陥り、彼らは血眼になって追う。爪を剥がしながら親不知の絶壁を這いのぼり、ヒメはさらに西の山中へと逃げる。荒波と深い峡谷が、人を拒む。なだらかな海岸線しか知らないイズモの兵たちは、この峻険な断崖の前に足がすくみ、近づくことすらできなかった。
岩陰に身を潜め、息を整えながら、ヒメは胸元の翡翠を強く握りしめる。
石はどこまでも冷たい。しかし、暗闇の中でさえ煌めくその翠の石は固く、ヒメの意志そのもののようであった。
クニの存亡を賭けたイズモの目論見は、命を懸けたヒメの覚悟によって、翡翠を扱う権利は得たものの、すべてを果たせたわけではなかった。ヒメの安否も、歴史はただ、逃げ戻ったと書くのみである。のちにイズモは玉造りを我が物とするが、翡翠だけは、ついにその手中に収めることができなかったのである。
だが、この二つのクニの結びつきは、この後、深く、強く、やがて東国の力としてこの大八洲を統べる心柱を形作ってゆくことになる。
姫川の記憶
それから、あまりにも長い年月が流れた。
かつて列島を十字に結んだ壮大な翠の道も、イズモを震わせた地政学的権力闘争も、時の流れのなかで少しずつ、全てが歴史の底へと沈められていった。
いつしか翡翠そのものが、この国の人々の記憶から完全に忘れ去られる時代が訪れる。かつて神の骨と呼ばれた清廉な石は、誰に顧みられることもなく、再び峡谷の川底で静かに眠りについた。
あの誇り高き一族の営みも、大蛇の巨岩の前で火と水を使い、砂で珠を磨き続けた男たちの情熱も、全ては時の彼方へと消え去った。
ただ、一つだけ残ったものがあった。
一族が命がけで翡翠の秘密を守り抜き、人を近づけまいと厭川と呼び、されどその奥に最高峰の宝を隠した秘め川の呼び名。それが、かつてこの地と一族を守るために自ら泥を被って敵の船に乗り込んだ、あの気高きヒメの記憶とともに、語り継がれていく。
人々はいつしか、その川を、ヒメの伝承とともに姫川と呼ぶようになった。
すべてが歴史のなかに沈められていった。それでも、原始の峡谷から日本海へと注ぐその清らかな流れだけは、主を失った今もなお、ヒメの覚悟の物語をそのせせらぎに宿しながら、静かに、優しく、今もこの大地を流れ続けている。




