7話
森から帰った夜、眠ろうとした矢先に激しい雨が降り出した。
窓を叩く強い雨音。
黒い雲の向こうから雷の音も聞こえる。
塔は大丈夫だろうか。
そう思いながら朝まで続くであろう雨を見て、明日は休めることに安堵していた。
雨は翌日の昼過ぎに上がった。
サーシャは家でベッドに寝転がって何をするでも無く過ごしていると、母親が籠と財布を持ってきた。
「暇なら買い物してきて。市場でお肉と卵」
「わかった…」
サーシャは渋々上体を起こす。
「薬作りで疲れてるの?」
家族にはアルヴェの勧めで仕事を始めたことは伝えていた。
「まぁ、腕が痛くなるかな」
「仕立てより?」
「こう…蜜蝋が固まるまでいっぱい混ぜるからどんどん重たくなるの」
重たそうに薬鍋をかき回す動きをしてみせると、母親は笑う。
「サーシャが薬作りなんてねぇ。子供の頃からずっとあなたのお世話してくれてるなんて、アルヴェさんも変わってるよね」
「うん。かなり変だよ」
サーシャが深く頷く。母親は声を上げて笑い、腰に手を当てる。
「今度、ケーキでも焼く?」
「喜ぶと思う。意外と甘いもの好きだから」
「分かった。じゃあ、お買い物お願いね」
母親はドアを閉めて出ていく。
噂について何も聞かないことに感謝しつつ、サーシャは掛布を剥いでベッドからゆっくりと起き上がった。
「ねぇ、サーシャじゃない?」
市場へ続く石畳を歩いていると、町で仕立て屋の少女の声に呼び止められて振り返った。
サーシャは口を開きかけて固まる。
華やかな立襟とレースのモーニングドレスを纏って薄化粧をした彼女は、一瞬誰だか分からなかった。
「あんたさぁ、すごいじゃん。エルフの薬作ってるとかって。何で針子なんてしてたの?」
サーシャは質問に答えずに歩み寄った。
「どうしたの?その格好」
「子爵に気に入られて別のサロンへ移ったの。今は上等な仕立ても任せて貰えてるのよ」
彼女は結った髪とリボンを揺らして鈴を転がすように笑っている。
「あんな安っぽい店、辞めて正解だったわよ。私も、あんたも」
「そうかもね」
つられて笑ったが、少しだけ表情が翳る。
「……でも。薬、続けるか迷ってて」
「どうして?」
「話が大きくなりすぎちゃってて。ただ、昔からの知り合いが助けてくれただけなのに」
深刻な顔をするサーシャに少女は可笑しそうに首を傾げた。
「昔からの知り合いのエルフに助けて貰っただけ?」
「そう。なのにエルフの妙薬だとか、恩恵を受けてるとか」
「それが何なの。私達は作りたいものを作って対価を受け取るだけよ」
迷いの無い言葉に、サーシャは少し驚いて彼女を見る。
少女はその場で上等なタフタのスカートを翻した。豊かなドレープが光を受けて色を変える。
「店を移って不義理とか、客に取り入って卑怯とか。何とでも言えばいいわ」
彼女はこんなに魅力的だっただろうか。
ドレスも彼女も眩しく見える。
「綺麗な服だって着たいし、美味しい物だって食べたい。何がいけないの?」
「素敵だと思うよ」
サーシャは本心からそう言っていた。彼女は軽やかに笑う。
「胸を張りなさいよ。良いもの作ってるんだから」
簡単な別れを交わして、彼女はヒールをコツコツと鳴らして去っていった。
足元の石畳は、朝は灰色に濡れていたのにもう乾いて白くなっている。
「…よし」
サーシャは一つ呼吸をすると、籠を抱えたまま市場と違う方向へ歩き出した。
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翌日。
森のまだ湿った土を踏みしめる。
濡れて俯いた月白草を摘む。
籠を下げてトネリコのある丘を通り過ぎてゆく。
いつもの朝の風景。
小川を越えて丘陵の細い砂利道を登って塔へ着くと、サーシャは扉をノックした。
「おはよう、アルヴェ」
「…ああ」
サーシャの笑顔を見て、アルヴェは少し意外そうな顔をしていた。
「昨日は良く眠れたのか」
「うん。どうして?」
「そんな顔をしている」
外套を脱ぐと籠を二つテーブルに置く。
薬草の籠と、食料を入れた籠。
「月白草、あんまり採れなかったよ」
「蜜蝋も明日届くから、今日は作らなくていい」
「じゃあ、ある分の抽出だけね。今日は卵持って来たからお昼はオムレツにしよう」
アルヴェが振り向く。
「それは楽しみだ」
荷物を整理すると、サーシャは朝の作業に入った。
小さな窯の前で月白草の薬鍋を見ている。
その後ろのテーブルでアルヴェは鉱石の研磨をしていた。じっと見つめ、気になる箇所を見つけては布で擦ったりタイルで削って磨き上げている。
「あのね、アルヴェ」
サーシャは背中を向けたまま話し始めた。
「薬の話だけど、ギルドに少し多く預けることにしたの。ギルドで売り切っても、余った分を騎士団に売っても私は関与しないことにした」
「そうか」
アルヴェも振り向かずに相槌を打つ。
「エルフの妙薬って噂は訂正して貰うようにお願いした。あと禁足地については、ギルドと役場から罰則を設けて警告を出してくれるって」
「そうか」
手応えの無い返事にサーシャは振り向く。アルヴェは鉱石を布で磨いている。
「気にならないの?」
「君が今以上薬を売りたくないなら、動物用で売ればいい」
「それは人間用がいいんだけど」
「では、それで」
サーシャは何かを言い返そうとしたが、結局何が言いたかったのか分からなくなって、黙って鍋に向き直った。
昼になるとサーシャはオムレツを作り始めた。
卵を溶いて、油を敷いたスキレットに広げる。
そこに細く切ったベーコンとチーズと茸を乗せる。
卵に火が通ったら木べらで一緒に包む。
アルヴェはその様子をすぐ後ろでじっと見ている。
サーシャは思わず笑みを溢す。
「そんなに待ちきれないの?はい」
「ありがとう」
オムレツを皿に乗せて渡すと、彼は素直にテーブルに運んでいった。
しかしすぐに戻って来ると、またサーシャの背後に立って二つ目のオムレツを作るのを観察している。
「…楽しい?」
「そうだな」
二つ目のオムレツをアルヴェに運ばせている間に、サーシャはパンを薄く切って籠に入れる。
ピッチャーに入れた湧き水には、香り付けにローズマリーとスライスしたレモンを入れた。
二人で配膳して席に着く。
アルヴェが精霊に祈るのに倣って手を組んでから、フォークを手にして食べ始めた。
「美味しいな」
「そうだね」
「ベーコンの脂と茸の香りに、少し溶けたチーズが調和している」
「…気に入ったみたいで良かった」
半分ほどオムレツを食べたところで、サーシャは顔を上げる。
「アルヴェ…あの、良かったの?薬作り止めないで」
「なぜ止める必要が?」
「迷惑かけちゃったから」
「森の力を欲する輩はいつだっている」
アルヴェはそれ以上言わずにオムレツを食べている。サーシャもフォークでオムレツを切って口に運んだ。
少し沈黙が落ちる。
パンを千切りながら、サーシャは役場の話を始めた。
「町長さんは私達のことを誤解してるみたいだけど、いいのかな」
「何を?」
「私がアルヴェにとって特別だって」
「事実だろう」
サーシャの手が止まる。
水を一口飲んで、何でもないようにアルヴェは続けた。
「自由に森へ入ることを許しているのは君だけだ」
「ん?うん…」
戸惑いながらパンを口に入れたサーシャを、アルヴェは面白そうに見ている。
何故か目を合わせられなかった。
「知らなかったのか?」
「…他の人に会ったことないし、そうだろうなとは、思ってたけど…」
「薬のことも、私が教えたくて君に教えたのだからどうしようが構わない」
アルヴェがサーシャの顔を覗くように顔を傾けると、さらりと長い銀髪が肩に流れた。
「言ったろう。君が望むようにしたらいいと」
「うん」
「つまりそういう事だ」
「…どういう事?」
サーシャが聞き返す。
少し黙って、アルヴェは少しだけ困ったような視線を向けた。
「本当に君は察しが悪い」
「アルヴェが言葉足らず過ぎるんだよ。だって、そんな…」
二の句が継げなくなる。
素知らぬ顔でアルヴェは食事に戻っていた。
視線が行き場を無くして、サーシャは意味もなくフォークや窓のドライフラワーを見ている。
アルヴェの顔が見られない。
彼はずっと、薬のことなどどうでも良かったのだ。




