生活保障労働
前回、私は「100人の村」の思考実験を紹介した。
今回はそれをもとに、なぜ全員で生活を支える仕事を分担する必要があるのかを深掘りしていきたい。
私は経済学を学んだわけでもなければ、社会制度の専門家でもない。だから、この考え方もあくまで一つの思考実験として読んでいただければ幸いである。
さて、私たちの社会では、一つの貨幣であらゆるモノが取引されている。
食料や住まいのように、生きるために欠かせないものも。
趣味で作られた雑貨や、美術品、娯楽やサービスのように、暮らしを豊かにするものも。
もちろん、貨幣という仕組みは非常に優れている。物々交換では難しかった複雑な取引を可能にし、社会を大きく発展させてきた。
しかし私は、一つの疑問を持つようになった。
社会を支えるための仕事と、暮らしを豊かにする仕事は、本当に同じ競争の中に置くべきなのだろうか。
例えば、農業や医療、道路や水道の整備は、誰もが恩恵を受ける仕事である。社会そのものを支える土台と言っていい。
一方で、音楽や絵画、美味しい料理や手作りの雑貨は、人の暮らしをより豊かにしてくれる。しかし、それは必要とする人が価値を見出すものであり、全員にとって同じ重要性を持つわけではない。
どちらも社会には必要だ。
ただ、役割は違う。
私が生活保障労働という考え方に至ったのは、この二つの役割を分けて考えた方が自然なのではないかと思ったからである。
これを100人の村で例えてみる。今回はお金のことは一旦忘れて、「生活を支える仕事も市場原理の中で役割分担する村」と、「生活になくてはならない仕事を全員で分担する村」を考えてみたい。
前者の村では、数人の農家が村人全員の食料を生産する。道路や家を建てる人も、工業製品を作る人も、それぞれ専門の仕事として役割を担う。介護や医療も専門職が担当する。
その一方で、音楽を作る人、本を書く人、漫画を描く人、芸で人を楽しませる人、新しい道具を発明する人など、多くの人がそれぞれの得意分野で価値を生み出している。
後者の村では少し考え方が違う。
食料の生産や道路の整備、生活インフラの維持など、村全体に必要な仕事は原則として全員で分担する。そして、その仕事が終わった後の時間を、それぞれが自由に使う。
絵を描く人もいる。
酒を造る人もいる。
漫画を描く人もいる。
雑貨を作る人もいる。
二つの村の違いが分かるだろうか。
一見すると、前者の村の方が効率が良いように見えるかもしれない。
得意な人が得意な仕事をする。専門家が増え、生産性も上がる。実際、現代社会はこの考え方によって大きく発展してきた。
では、私が後者の村を考えた理由は何だろうか。
それは、「効率」ではなく、「責任」の置き方が違うからである。
後者の村では、「生活を支えること」は全員の責任である。農業も、道路も、水道も、介護も。
それは誰かの仕事ではなく、村全体の仕事になるのだ。
一方、前者の村では、生活を支える仕事も市場の一部になる。つまり、どの仕事にどれだけ人が集まるかは、「利益が出るか」「収入になるか」という基準で決まることになる。
どちらが絶対に正しいと言いたいわけではない。
ただ、生きるために必要な仕事だけは、市場競争とは別の考え方があってもいいのではないか。
そんな疑問から、「生活保障労働」という発想にたどり着いた。
しかし、この仕組みには一つ大きな問題が残る。
誰が「生活に必要な仕事」を決めるのか。
農業は分かる。
医療も分かる。
では、教育はどうだろう。
芸術は。
娯楽は……。
その境界線は、決して簡単ではない。この線引きこそが、この社会制度で最も難しい問題なのかもしれない。
次回は、「生活保障労働の範囲」について考えてみたい。
◇
男は、鳥の鳴き声で目を覚ます。
数十年に一度の嵐だった。
丸ニ日降り続いた雨がようやく止み、雲の切れ目から光が差している。
この街の南北を繋ぐ橋が、川の氾濫に飲まれて落ちてしまったらしい。
朝一番に鳴った鐘は、緊急時特別労働の招集を知らせるものだった。
「橋が落ちたそうだ」
工場へ向かう道すがら、そんな声があちこちから聞こえてきた。
「工場は今日から三日間停止だ」
工場長の言葉に誰も異論はない。
橋が落ちれば物流は止まる。食料も、薬も、子どもたちの通学も困る。まずは橋を戻す。それが優先だ。
町へ出ると、既に多くの人が集まっていた。
農家も、鍛冶屋も、商人も、教師も。
普段は机に向かっている役人まで土砂を運んでいる。
昼前には、隣町から応援隊が到着した。
さらに午後になると、王国軍の工兵部隊が姿を見せる。
「橋脚はこっちだ! 資材を回せ!」
号令が飛び交う。
魔導士が濁流を抑え、工兵が橋脚の基礎を固める。
農家は土を運び、教師は資材を数え、役人は炊き出しの手配に走る。
誰が偉いわけでもない。
誰か一人の仕事でもない。
この街で暮らす、すべての人の仕事だった。
三日後。
仮橋が完成した。
緊急労働をおえた男は新しく架かった橋を眺める。
革袋の中の王国銀貨が、かちゃりと音を立てた。
三日分の特別手当だ。
「明日からまた仕事か」
そう呟きながらも、足取りはどこか軽い。
あの橋は、自分も作った橋だからだ。
川の向こうでは、子どもたちが、完成したばかりの仮橋を嬉しそうに駆け回っていた。




