第9話 疑念 -Doubt-
――ここ、本当に現実なのかしら。
娯楽ホールでエミリアが呟いたその言葉は、ジェイクの頭から離れなくなっていた。
独房へ戻った後も、何度も考える。
だが結論は出ない。
確かにパンフレットは消えた。
あれは説明できない。
だが、それだけで「ここは現実ではない」などと言えるのか。
ジェイクはベッドへ腰掛け、煙草へ火をつけた。
細い煙が暗い天井へ昇っていく。
「……馬鹿げてる」
小さく呟く。
刑務所は刑務所だ。
三十年間、自分はここで生きてきた。
痛みも感じる。
腹も減る。
老いる。
眠る。
夢も見る。
そんなものが偽物なはずがない。
だが。
パンフレットは消えた。
それだけが、どうしても説明できなかった。
*
翌日。
ジェイクは、作業場から独房棟へ戻る通路を歩いていた。
前方から、中年の黒人看守が巡回してくる。
警棒を揺らしながら、気怠そうに歩いていた。
ジェイクはすれ違う瞬間、わざと肩をぶつけた。
「おっと、悪いな」
看守が睨む。
「前を見て歩け、ジジイ」
ジェイクは鼻で笑った。
「お前の目の方が腐ってるんじゃねぇか?」
次の瞬間。
看守の顔色が変わる。
「なんだと?」
警棒へ手が伸びる。
だが、その時点で別の看守が近づいてきた。
「やめろ」
中年看守は舌打ちしながら離れる。
普通だった。
どこにでもある刑務所のやり取り。
ジェイクもそう思った。
*
翌日。
同じ時間。
同じ通路。
同じ看守。
ジェイクは再び肩をぶつけた。
「悪いな」
看守が振り向く。
「前を見て歩け、ジジイ」
ジェイクの背筋へ、冷たいものが走る。
昨日と同じ言葉。
同じタイミング。
同じ目つき。
ジェイクは平静を装いながら言う。
「お前の目の方が腐ってるんじゃねぇか?」
看守の顔色が変わる。
「なんだと?」
警棒へ手が伸びる。
そこへ別の看守が来る。
「やめろ」
完全ではない。
だが。
似すぎていた。
*
三日目。
今度は別の看守で試した。
若い白人看守だった。
ジェイクはわざと通路を塞ぐ。
「どけ」
看守が言う。
ジェイクは動かない。
「耳ついてんのか、ジジイ」
そして。
警棒へ手が伸びる。
威嚇。
怒鳴り声。
距離。
全てが妙に似ていた。
もちろん完全に同じではない。
だが、“揺らぎ”が少なすぎる。
まるで同じ型にはめ込まれているように。
ジェイクの背中へ冷たい汗が流れた。
*
三日後。
娯楽ホール。
古い映画がスクリーンへ映し出されている。
囚人たちは雑談し、煙草を吸い、誰も真面目に見ていない。
ジェイクは最後列へ座った。
しばらくして。
エミリアが隣へ腰を下ろす。
「どうだった?」
ジェイクはスクリーンを見つめたまま、小さく言う。
「……確かに変だ」
エミリアは何も言わない。
ジェイクは低い声で続けた。
「最初は偶然だと思った」
「でも、何回試しても似た反応をする」
「もちろん全く同じじゃねぇ」
「けど……」
ジェイクは言葉を探す。
「人間って、あんなに綺麗に反応揃うもんか?」
スクリーンの白い光が、二人の顔を照らす。
エミリアは静かに言った。
「揺らぎが少ないのよ」
「……揺らぎ?」
「人間って、本来もっと曖昧なの」
「機嫌。
疲労。
感情。
偶然」
「全部で反応は変わる」
エミリアは前を向いたまま続ける。
「でも、この刑務所は違う」
「まるで同じ条件に対して、同じ答えを返してるみたい」
ジェイクは黙り込む。
遠くで看守の靴音が響く。
映画の銃声。
囚人たちの笑い声。
全て、いつも通りだった。
だが今のジェイクには、その“いつも通り”が逆に不気味だった。
ジェイクは小さく呟く。
「……あんた、何者なんだ?」
エミリアは少し黙った。
スクリーンの白い光が、老けた横顔を照らしている。
「エミリア」
「元技術者よ」
「技術者?」
「ええ……たぶん」
“たぶん”。
妙な言い方だった。
ジェイクは眉をひそめる。
「自分のことなのに曖昧なんだな」
エミリアは苦笑した。
「ここへ来てから、記憶がぼやけてるの」
「覚えてることと、覚えてないことがある」
短い沈黙。
彼女は視線を落とした。
「姉がいた」
「……でも、それ以上は思い出せない」
ジェイクは煙草を咥えたまま聞いていた。
「刑期は?」
一瞬の沈黙。
エミリアは静かに答える。
「……懲役百年」
ジェイクの眉が跳ね上がった。
「はぁ!?」
思わず声が漏れる。
「最長刑じゃねぇか!」
ジェイクは呆れたように笑った。
「殺人のオレでも五十年だぜ?」
「……あんた、いったい何人殺したんだ?」
エミリアは、ゆっくり首を振った。
「……分からない」
「思い出せないの」
「看守は、私が何人も殺したって言う」
「でも、詳しくは教えてくれない」
「記憶障害だって」
ジェイクは黙ってエミリアを見る。
白髪混じりの髪。
痩せた身体。
どこにでもいるような中年女。
少なくとも、何人も殺した人間の目には見えなかった。
ジェイクには分かる。
本当にヤバい奴は、もっと別の目をしている。
「……」
「なんですか?」
「いや」
ジェイクは煙を吐いた。
「とても大量殺人犯には見えねぇなと思ってよ」
エミリアは少しだけ笑った。
だが、その笑みはすぐ消える。
そして。
小さく呟いた。
「もし……」
「この刑務所そのものが、“システム”だったら?」
ジェイクは何も答えられなかった。




