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第33話 Family Future Simulation

 暖かな日差しがリビングへ差し込んでいた。

 窓の外では鳥が鳴いている。

 だがヴィクター・ケインの視線は、エミリアの右手から離れなかった。

 帰還デバイス。

 エミリア自身は腰に付けている。

 一瞬だけ。

 張り詰めていた緊張が緩んだ。

 助かった。

 そう思った。

 エミリアはゆっくりと歩き出した。

 リビング中央のテーブルへ近づく。

 そして何もない空間へ手を伸ばした。

 空中に操作パネルが現れる。

 ヴィクターの表情が変わった。

「何をしている?」

 エミリアは答えない。

 指先がいくつかの項目を選択する。

 見覚えのある管理画面だった。

 開発責任者権限。

 ソフィアしか触れなかった領域。

「エミリア」

 返事はない。

 やがて一つのフォルダが表示された。

《Family Future Simulation》

 ヴィクターの眉が僅かに動く。

 知っている。

 EDENの正式機能だ。

 両親のDNA情報から仮想人格を生成するシステム。

 利用者向けにも公開されている。

 だが、そのフォルダには見覚えのない管理者ロックが掛かっていた。

 エミリアはロック解除コードを入力する。

 画面が開いた。

 その瞬間。

 ヴィクターの顔色が変わった。

「それは……」

 エミリアが静かに言う。

「姉さんの隠しフォルダ」

 ヴィクターは黙った。

「あなたは知らなかったでしょうけど」

 エミリアの指がデータを開く。

「姉さんはこの中に、大切なものを残していたの」

 小さな音声ファイルが表示された。

 再生。

 ノイズ。

 そして。

 聞き慣れた声が流れ始める。

『記録番号SF-117』

 ソフィアだった。

 ヴィクターの表情が強張る。

『私は研究者として失格だわ』

 静かな笑い声。

『ただの医療用人格モデルのはずなのに』

『どうしても、この子を娘だと思ってしまうの』

 ヴィクターの目が見開かれる。

『ヴィクターにはまだ見せていない』

『きっと笑うでしょうね』

『でも……』

 短い沈黙。

『私たちの子供が、こんな顔で生まれてくるかもしれないと思ったら』

『どうしても削除できなかった』

 録音が終わる。

 静寂。

 誰も喋らなかった。

 やがてエミリアが操作を続ける。

 空間に光が集まり始めた。

 小さな輪郭。

 小さな手。

 小さな足。

 やがて一人の少女が現れた。

 五歳ほど。

 淡い色のワンピース。

 胸には小さなぬいぐるみが抱かれている。

 ヴィクターは動けなかった。

 少女の顔を見る。

 ソフィアに似ていた。

 そして。

 自分にも似ていた。

 少女は周囲を見回す。

 そしてヴィクターを見つけた。

 不安そうな顔になる。

「パパ……?」

 ヴィクターの顔から血の気が引いた。

 少女は一歩近づく。

「パパ?」

 小さな声だった。

 ヴィクターは何も言えない。

 エミリアが静かに口を開く。

「この子は医療用精密人格モデル」

「あなたと姉さんのDNAから生成された人格よ」

 ヴィクターの喉が鳴る。

「そんな……」

「姉さんは研究者だった」

「でも最後まで、この子を研究データとして扱えなかった」

 少女は不思議そうにヴィクターを見上げている。

「パパ?」

 エミリアは続けた。

「今からこの子を医療用人格データベースへ移すわ」

 ヴィクターが顔を上げる。

「何だと?」

「医療用人格モデルなんでしょう?」

 エミリアの声は静かだった。

「倫理制限も解除されるでしょうね」

 ヴィクターの顔が強張る。

「この子は管理者の保護を失う」

「研究にも使われる」

「実験にも使われる」

「訓練にも使われる」

「そして、この世界で起きていること全ての対象になる」

 短い沈黙。

 エミリアはヴィクターを見つめた。

「きっと、あなたのスポンサーたちの目にも留まるでしょうね」

 少女を見下ろす。

「こんなに可愛いんだもの」

 ヴィクターの顔から血の気が引いた。

「義兄さんなら、その意味が分かるでしょう?」

 少女が不安そうにヴィクターを見る。

「パパ……?」

 ヴィクターは一歩前へ出た。

「やめてくれ」

 エミリアは何も言わない。

「お願いだ……」

 声が震えていた。

「やめてくれ」

 少女がヴィクターの服を掴む。

「パパ……?」

 ヴィクターは少女を見た。

 そして。

 ゆっくりと膝をついた。

「お願いだ……」

「この子だけは……」

 ヴィクターの声は崩れていた。

「やめてくれ……」

 エミリアは静かに言った。

「どうして?」

 ヴィクターは答えられない。

「仮想人格なんでしょう?」

「人間じゃないのでしょう?」

「心なんて存在しないのでしょう?」

 ヴィクターは唇を震わせた。

「違う……」

 かすれた声だった。

「何が違うの?」

 少女は何も知らない。

 なぜ自分がここへ呼び出されたのか。

 なぜ大人たちが言い争っているのか。

 なぜ目の前の男性が泣いているのか。

 ただ。

 その男性が自分にとって大切な存在であることだけは分かっていた。


 少女がヴィクターの服を掴んだ。

「パパ……」

 小さな瞳が見上げてくる。

「私、悪いことした?」

 ヴィクターの身体が震えた。

 少女を見る。

 ソフィアを見るようだった。

 未来を見るようだった。

 そして。

 自分自身を見ているようだった。

 ヴィクターは少女を抱きしめた。

「違う」

 かすれた声だった。

「お前は悪くない」

 少女は首を傾げる。

「じゃあ、どうして泣いてるの?」

 ヴィクターは答えられなかった。

 涙が止まらない。

 人生をかけて信じ続けてきた理屈。

 その全てが崩れていく。

 エミリアは黙って見ていた。

 やがてヴィクターは言った。

「私が……」

 声が震える。

「私が間違っていた」

 リビングは静まり返っていた。

 ただ少女だけが、不思議そうにヴィクターを見上げていた。

          *

 長い沈黙のあと。

 エミリアは右手を差し出した。

 そこには帰還デバイスが握られていた。

「帰りましょう」

 ヴィクターは動かなかった。

「私に、その資格はない」

「あるわ」

 エミリアは即答した。

「姉さんなら帰らせたと思う」

 ヴィクターは目を閉じる。

 ソフィアの顔が浮かんだ。

 きっと同じことを言うだろう。

 そんな気がした。

 少女が服の裾を引っ張る。

「パパ?」

 ヴィクターは少女を見た。

 生まれることのなかった娘。

 未来だったかもしれない存在。

 ヴィクターは静かに抱きしめた。

「もっと早く気付くべきだった」

少女は意味が分からないまま微笑んだ。

「また遊んでくれる?」

 ヴィクターは答えられなかった。

 代わりにエミリアが言う。

「きっとよ」

 少女は嬉しそうに笑った。

 ヴィクターは顔を上げる。

 そして帰還デバイスを受け取った。

「ありがとう」

 エミリアは首を振る。

「お礼を言う相手は私じゃない」

 ヴィクターは小さく頷いた。

 帰還デバイスを腰へ装着する。

「行きましょう」

 ――

 二人は同時にボタンへ手を伸ばした。

 光が身体を包む。

「パパ!」

 少女の声が響く。

 ヴィクターは最後に一度だけ振り返った。

 少女は笑っていた。

 その姿が遠ざかっていく。

 世界が白く染まった。

          *

 ヴィクター・ケインは目を開いた。

 見慣れた天井。

 CEO室。

 現実世界だった。

 身体が重い。

 だが意識ははっきりしている。

 ゆっくりと起き上がった。

 その瞬間。

「ヴィクター・ケイン」

 低い声が響く。

 部屋の中には警察官たちが並んでいた。

 刑事が逮捕状を示す。

「ソフィア・ケイン殺害」

「証拠偽造」

「ジェイク・ウォーカーへの冤罪工作」

「その他複数の容疑により逮捕します」

 ヴィクターは抵抗しなかった。

 逃げようとも思わなかった。

 手錠が掛けられる。

 冷たい金属の感触。

 刑事が歩き出す。

 ヴィクターも従った。

 CEO室の扉が開く。

 廊下へ出る。

 そこで彼は一度だけ振り返った。

 ソファ。

 ヘッドセット。

 静かな部屋。

 そして。

 誰もいないはずの空間に、小さな少女の姿を見た気がした。

「パパ」

 幻聴だったのかもしれない。

 それでもヴィクターは微笑んだ。

 涙が一筋だけ頬を伝う。

 そして前を向いた。

 もう二度と振り返らなかった。

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