第34話 新たな門出 - A New Beginning -
ヴィクター・ケイン逮捕から、三か月が過ぎた。
世界は、しばらくの間、EDENの話題一色になった。
テレビ。
ネットニュース。
討論番組。
政府公聴会。
被害者団体の会見。
投資家向け説明会。
どこを見ても、EDENだった。
『EDEN社は本日、旧経営陣の一斉退任を発表しました』
ニュースキャスターの声が、狭いアパートのリビングに流れている。
ジェイク・ウォーカーは、ソファに身体を沈めたまま、ぼんやりと画面を見ていた。
安いテーブル。
古い冷蔵庫。
壁際に置かれた段ボール。
戻ってきたアパートは、以前とほとんど変わっていなかった。
だが、自分だけが変わっていた。
『新体制では、エミリア・クロス氏が暫定最高責任者に就任し、EDEN各事業の全面的な見直しを進めています』
画面にエミリアの姿が映る。
黒いスーツ。
落ち着いた表情。
大勢の記者に囲まれながらも、彼女は静かに前を見ていた。
『EDEN Bio-Reconstruction Systemについては、医療用途に限定して運用を継続』
『EDEN Pediatric Life Support Systemについても、小児医療および長期療養支援に限定して継続されます』
『一方で、依存性が問題視されていたEDEN Fantasy Worldについては、利用時間と接続回数に新たな制限が導入されます』
画面が切り替わる。
巨大なEDEN本社ビル。
白い研究棟。
地下施設へ続く搬入口。
そして、カプセルが並ぶ映像。
『さらに、EDEN Genetic Personality Systemは、新規提供を一時停止』
『EDEN Memory Personality Reconstructionについても、専門カウンセリングを義務化した上で、段階的な利用制度へ移行するとのことです』
ジェイクは小さく鼻を鳴らした。
「ずいぶん大掃除したもんだな」
誰に言うでもなく呟く。
冷めたコーヒーを口へ運ぶ。
まずい。
だが、そのまずさが現実だった。
EDENの中では、味すら妙に整っていた。
現実のコーヒーは、安物で、薄くて、焦げ臭い。
それが少しだけありがたかった。
ニュースは続く。
『また、アテナ計画については無期限凍結が発表されました』
『関係者によりますと、同計画は軍事・司法・教育・人格管理分野への応用を想定していたとされ、現在も政府調査委員会による検証が続いています』
ジェイクはテレビを見つめた。
アテナ計画。
エミリアから少しだけ聞いていた名前だった。
人間を救う技術。
人間を管理する技術。
人間を作り替える技術。
その境界は、きっと紙一枚ほどの薄さしかなかった。
『今回の事件では、ジェイク・ウォーカー氏に対する冤罪も正式に認定されました』
画面に、自分の昔の顔写真が映る。
逮捕時の写真だった。
髭も短く、目つきは悪い。
いかにも何かやりそうな男に見える。
ジェイクは苦笑した。
「もう少しマシな写真を使えよ」
『ウォーカー氏には、誤認逮捕および不当収監に関する補償金に加え、EDEN社の被害者救済基金から和解金が支払われる見通しです』
ジェイクはテレビのリモコンを手に取った。
消そうとして、やめた。
『EDEN内部での主観体験期間をどのように補償対象へ含めるべきかについては、現在も議論が続いています』
ニュースキャスターの声が、妙に遠く聞こえた。
現実では、約十一日。
だがジェイクにとっては、三十年だった。
三十年。
鉄格子。
雨。
独房。
食堂。
懲罰房。
古い映画。
煙草の煙。
エミリアの横顔。
それらは、夢ではない。
脳に刻まれた、本物の三十年だった。
ジェイクはテレビを消した。
部屋が静かになる。
冷蔵庫の低い音だけが残った。
自由。
その言葉は、もっと軽いものだと思っていた。
外へ出られる。
好きなものを食える。
好きな時間に眠れる。
誰にも点呼されない。
誰にも命令されない。
それだけで十分だと思っていた。
だが、実際には違った。
自由になっても、三十年は消えない。 スーパーへ行く。
棚には缶詰が並んでいる。
冷凍食品。
肉。
野菜。
安売りのパン。
普通の光景だった。
だが、人が多いと息苦しくなる。
誰かが後ろを通るたびに、身体が反応する。
店員の無線音に、看守の声を思い出す。
レジの電子音が、点呼の合図に聞こえることがある。
公園を歩く。
子供たちが走っている。
犬が吠える。
老人がベンチで新聞を読んでいる。
平和だった。
だが、フェンスを見ると刑務所の中庭を思い出す。
雨が降ると、独房の天井を思い出す。
誰かが笑うと、食堂での小競り合いを思い出す。
現実に戻った。
それでも、EDENは消えなかった。
ジェイクは、窓の外を見た。
昼下がりの街。
車が走っている。
人が歩いている。
誰も、彼の三十年など知らない。
それでいい。
そう思おうとした。
だが、胸の奥には、まだ鉄格子が残っていた。
*
仕事は戻らなかった。
宅配会社には、復職を求めた。
当然の権利だと思っていた。
自分は無実だった。
殺人犯ではなかった。
AI司法システムが間違っていた。
映像も証拠も偽造だった。
だが、会社の答えは変わらなかった。
『お気持ちは理解します』
『しかし、社内規定上、解雇処分の取り消しは困難です』
『また、現在の社会的影響も考慮する必要があります』
社会的影響。
便利な言葉だった。
元ギャング。
殺人容疑で逮捕。
EDEN収監。
全国ニュース。
冤罪認定。
最後に無実だと分かっても、人間は最初に貼られたレッテルをなかなか剥がさない。
ジェイクは電話を切った後、しばらく笑っていた。
怒る気にはならなかった。
昔の自分なら、怒鳴っていたかもしれない。
会社へ乗り込んで、机を蹴っていたかもしれない。
だが、今は違った。
三十年も刑務所にいれば、怒り方すら少し変わる。
「まぁ、いいさ」
ジェイクは小さく呟いた。
補償金は出た。
誤認逮捕で拘束された期間の補償。
EDEN社からの和解金。
ヴィクター事件被害者基金からの支払い。
細かい計算方法は知らない。
だが、弁護士は言っていた。
『現実の拘束期間だけでなく、EDEN内部での主観的拘束期間も考慮されています』
ジェイクはその時、思わず笑った。
「つまり、三十年分か?」
『厳密には違いますが、近い考え方です』
「そいつはありがたい」
ありがたい。
そう言うしかなかった。
十一日分ではなく、三十年分。
それでしばらくは暮らせる。
仕事はない。
世間の目も冷たい。
だが、腹は減る。
家賃も必要だ。
現実とは、そういうものだった。
*
一方で、EDENは大きく変わり始めていた。
ヴィクター・ケイン逮捕後、EDEN社の旧経営陣は次々と退任した。
名目は引責辞任。
実態は、ほとんど粛清に近かった。
エミリア・クロスは暫定CEOとして、最初の一か月で多くの契約を切った。
多額の寄付。
政治的支援。
軍事研究資金。
投資枠。
それらを条件に、不当な倫理制限解除を求めていたスポンサーたち。
エミリアは、その全てを契約解除対象とした。
もちろん反発は大きかった。
訴訟をちらつかせる企業。
政治家を動かそうとする財団。
軍関係者からの圧力。
株主からの批判。
だが、エミリアは退かなかった。
彼女は警察へ、証拠映像と内部記録を提出した。
スポンサーリスト。
解除申請履歴。
EDEN Ethical Control Systemの改変ログ。
違法すれすれの利用記録。
ヴィクターが承認した例外処理。
全てだった。
だが、結果は彼女の望んだものではなかった。
精密人格モデルは、人間ではない。
いくら高度に再現されていても。
痛みを訴えても。
恐怖を見せても。
記憶を持っていても。
人格として振る舞っても。
法的には、人間ではない。
そのため、多くのスポンサーは刑事責任を問われなかった。
エミリアは報告書を読んだ夜、長い間、何も言わなかった。
怒りはあった。
だが、怒りだけでは法律は変わらない。
だから彼女は、できることをした。
EDEN Bio-Reconstruction Systemは、医療関係に限定した。
外科訓練。
難病研究。
小児医療。
救急シミュレーション。
それ以外の利用は禁止。
EDEN Genetic Personality Systemは、新規提供を停止した。
既存利用者については、専門カウンセリングを義務化し、利用目的と接続時間を再審査することになった。
EDEN Memory Personality Reconstructionも同じだった。
故人再現。
ペット再現。
記憶・会話・行動傾向再構築AI。
それ自体は、人を救うことがある。
だが、同時に人を現実へ戻れなくすることもある。
だから、利用者には必ずカウンセラーが付くことになった。
EDEN Fantasy Worldは存続した。
世界同時接続者数二千三百万人を誇った巨大仮想世界を、いきなり閉鎖することはできなかった。
だが、中毒性の高いコンテンツは制限された。
接続時間。
連続利用日数。
課金上限。
感覚同期率。
現実帰還チェック。
全てに制限が加えられた。
利用者の一部は激しく反発した。
だが、エミリアはこう言った。
『EDENは、現実から人を奪うための場所ではありません』
『現実へ戻る力を失わせる技術なら、それは幸福ではありません』
その言葉は、多くの批判を浴びた。
それでも、彼女は取り消さなかった。
*
長期カプセル利用者についても、見直しが行われた。
EDENには、すでに現実生活をほとんど捨てていた利用者がいた。
家族のいない者。
重い病を抱えた者。
高齢者。
現実での生活に絶望した者。
仮想世界の中にしか居場所を持てなくなった者。
彼らを強制的に切断することはできなかった。
だが、そのまま放置することもできなかった。
エミリアは、全ての長期利用者に一度、現実へ戻る機会を設けた。
家族がいる者は、家族と話し合った。
医師。
カウンセラー。
弁護士。
本人。
家族。
その全員で、今後の利用方針を決めた。
現実へ戻る者もいた。
泣きながら家族と抱き合う者もいた。
何年も放置していた部屋へ戻る者もいた。
もう一度治療を受けると決めた者もいた。
それでも、仮想世界を選ぶ者はいた。
エミリアは、それを否定しなかった。
現実に戻れば幸せになる。
そんな簡単な話ではない。
現実が痛みでしかない人間もいる。
現実に居場所がない人間もいる。
仮想世界でしか呼吸できない人間もいる。
だから、彼女は条件を設けた。
家族がいないこと。
治癒の見込みがない病を抱えていること。
専門医とカウンセラーによる審査を受けること。
定期的に現実確認を行うこと。
そして、本人の意思が継続して確認できること。
EDENは、逃げ場であってもいい。
だが、牢獄であってはならない。
それが、エミリアの出した答えだった。




