第32話 審判 - Judgment -
ジェイクはヴィクターを見据えていた。
ソファの前。
わずか数歩の距離。
三十年前なら、ただの他人だった。
だが今は違う。
三十年。
その時間が二人の間に横たわっていた。
「何か言うことはないか?」
静かな声だった。
だが、その奥には押し殺した怒りが滲んでいた。
リビングに沈黙が落ちる。
ヴィクターはジェイクを見つめ返した。
若い顔だった。
だが、その目だけは違う。
そこには長い年月を生きた人間だけが持つ影があった。
やがてヴィクターは口を開いた。
「たったの十一日間だろう」
静寂。
ジェイクの表情が止まった。
「……何だって?」
「現実では十一日間だ」
ヴィクターは淡々と言う。
「君は何も失っていない」
その瞬間。
ジェイクの拳が震えた。
「失っていない?」
一歩前へ出る。
「俺はあの刑務所で三十年生きた」
ヴィクターは何も言わない。
「三十年だぞ」
「何度も脱獄しようとした」
「何度も懲罰房へ放り込まれた」
「仲間も死んだ」
「人生全部失ったんだ」
声が徐々に大きくなる。
「それを失っていないだと?」
ヴィクターは静かに首を振った。
「錯覚だ」
ジェイクの眉が動く。
「何?」
「EDENが作った記憶に過ぎない」
ヴィクターは続けた。
「君は三十年歳を取ったわけではない」
「現実の肉体も失っていない」
「だから何も失っていない」
ジェイクの顔が歪む。
「錯覚?」
怒りとも呆れともつかない笑みが浮かんだ。
「本気で言ってるのか?」
その時だった。
「二十一年よ」
エミリアが立ち上がった。
ヴィクターが振り向く。
「私もあそこで二十一年生きた」
「姉さんを失った」
「未来も失った」
「全部現実だった」
ヴィクターは答えない。
エミリアは続けた。
「肉体年齢なんて関係ない」
「私たちは確かに生きていた」
「確かに苦しんだ」
「確かに絶望した」
「全部現実だった」
ヴィクターは黙ったまま視線を逸らした。
ジェイクがゆっくり近づく。
「安心しろ」
ヴィクターの腰へ目を向けた。
「殺しはしない」
ヴィクターの表情が変わる。
ジェイクは手を伸ばした。
「ただ味わってもらう」
腰に装着された帰還デバイスを握る。
「俺たちが味わった絶望をな」
「やめろ」
ヴィクターが反射的に後退する。
だが遅かった。
ジェイクは帰還デバイスを引き抜く。
「返せ」
「断る」
「返せ!」
初めてヴィクターの声に焦りが混じった。
ジェイクは笑った。
久しぶりに見せる笑顔だった。
「大丈夫だ」
帰還デバイスを軽く持ち上げる。
「現実では大した時間じゃない」
ヴィクターの顔が強張る。
ジェイクは続けた。
「ここで同じ時間を過ごすといい」
リビングが静まり返った。
ヴィクターは初めて理解した。
自分が置き去りにされる。
帰れなくなる。
その可能性を。
ジェイクとエミリアは同時に腰へ手を伸ばした。
「じゃあね」
エミリアが言う。
「義兄さん」
二人は同時にボタンを押した。
身体が淡い光に包まれる。
「待て!」
ヴィクターが叫ぶ。
だが光は止まらない。
次の瞬間。
二人の姿は消えていた。
残されたのはヴィクター一人。
静まり返ったリビング。
鳥の鳴き声だけが遠くで聞こえていた。
ヴィクター・ケインは動けなかった。
帰還デバイスを失ったまま。
ただ呆然と立ち尽くしていた。
*
ソフィア邸。
書斎の椅子に座ったまま、ジェイクはゆっくりと目を開いた。
視界の端にヘッドセットが映る。
隣ではエミリアも目を覚ましていた。
EDENの中では昼だった。
だが、窓の外を見ると、空はまだ暗かった。
現実との時間感覚の違いが、一瞬だけ奇妙な違和感を生んだ。
エミリアはヘッドセットを外した。
「行きましょう」
ジェイクは頷く。
もう迷いはなかった。
*
二人はEDEN管理施設へ向かった。
ソフィアが残したアクセス権限。
社員証。
管理者アカウント。
それらを使いながら、施設内に残された資料を回収していく。
研究データ。
監査ログ。
アクセス履歴。
削除済みファイルの復元データ。
そして――
先ほど仮想空間で行われた会話の映像ログ。
ヴィクター自身の口から語られた真実だった。
ソフィア殺害。
証拠偽造。
ジェイクへの冤罪工作。
全てが記録されている。
数時間後。
二人は警察に連絡した。
*
会議室。
大型モニターに映像が映し出される。
刑事たちは無言だった。
ヴィクターの自白。
管理システムのログ。
研究資料。
証拠は次々と積み上がっていく。
重い沈黙が流れる。
やがて一人の刑事が口をひらいた。
「十分です」
誰も異論を唱えなかった。
「ソフィア・ケイン殺害」
「証拠偽造」
「ジェイク・ウォーカーに対する冤罪工作」
「立件可能です」
ジェイクは静かに目を閉じた。
三十年。
長かった。
本当に長かった。
ようやく終わる。
そう思った。
だが隣のエミリアは違った。
彼女はまだモニターを見つめていた。
*
EDEN本社。
エレベーターが最上階へ到着する。
扉が開く。
その先にあったのはCEO室だった。
警察官たちが部屋へ入る。
その中央。
高級ソファに持たれる形でヴィクター・ケインが横たわっていた。
ヘッドセットを装着したまま。
まるで眠っているようだった。
「対象を確認」
「生命反応正常」
「意識はEDEN内」
警察官が報告する。
別の警察官が書類へ目を落とした。
「ヴィクター・ケイン」
「ソフィア・ケイン殺害」
「証拠偽造」
「その他複数の容疑により逮捕状発付済み」
静かな声だった。
「帰還後、直ちに身柄を拘束します」
その時だった。
「待ってください」
エミリアが前へ出る。
全員の視線が集まった。
「まだ終わっていません」
刑事が眉をひそめる。
「どういう意味ですか?」
エミリアは答えない。
そのまま操作卓へ歩いていく。
そして小さなケースを取り出した。
警察官が尋ねる。
「それは?」
エミリアはケースを開いた。
中には一台のヘッドセットが入っていた。
「姉さんのよ」
静かな声だった。
エミリアはヘッドセットを見つめる。
「姉さんが残したもの」
そしてヴィクターを見た。
「姉さんは最後まで諦めなかった」
「だから私も諦めない」
刑事が声を上げる。
「何をするつもりですか?」
エミリアはヘッドセットを手に取った。
「姉さんのやり残した仕事を終わらせます」
ジェイクが息を呑む。
何をするつもりなのか。
もう分かっていた。
エミリアは操作卓へ視線を向けた。
モニターの片隅には、一つのフォルダが表示されている。
《Family Future Simulation》
EDENの利用者なら誰もが知る機能だった。
両親のDNA情報から、仮想人格を生成するシステム。
だが、そのフォルダには通常とは異なる管理者ロックが掛けられていた。
ソフィア自身が封印したデータ。
エミリアは静かに息を吐く。
「姉さん……」
そしてソファへ腰を下ろした。
ゆっくりとヘッドセットを装着する。
目を閉じた。
同期開始。
視界が白く染まる。
*
次の瞬間。
エミリアは再び実家のリビングに立っていた。
暖かな日差し。
静かな空気。
窓の外で鳴く鳥の声。
そして。
部屋の中央にはヴィクター・ケインが立っていた。
彼は振り返る。
驚きの表情。
「エミリア……?」
エミリアの腰には帰還デバイスが装着されていた。
そして右手には、もう一つの帰還デバイスが握られている。
ヴィクターの視線がそこへ向けられた。
一瞬だけ。
その表情から緊張が消える。
エミリアは静かに答えた。
「まだ終わってないわ」




