第26話 最後の選択 - Final Choice -
ヴィクターは一歩踏み出した。
その瞬間だった。
鈍い音が部屋へ響く。
ソフィアの身体が大きく揺れた。
椅子が倒れる。
床へ落ちる音。
そして静寂。
ヴィクター自身、何が起きたのか理解できなかった。
床へ転がったペーパーウェイト。
震える自分の手。
頭の中が真っ白になる。
「……ソフィア?」
返事はない。
だが。
彼女は死んでいなかった。
苦しそうに息を吐きながら、ゆっくり身体を起こそうとしている。
ソフィアは彼を見た。
その目には恐怖があった。
ヴィクターは思わず一歩後ずさる。
「違う……」
小さな声。
「そんなつもりじゃ……」
ソフィアは答えない。
壁へ手をつく。
机へ手をつく。
そして、よろめきながら立ち上がった。
そのまま書斎の出口へ向かう。
「ソフィア」
呼びかける。
しかし彼女は止まらない。
廊下へ出る。
階段へ向かう。
一段。
また一段。
ヴィクターは無言のまま後を追った。
◇
リビングは静かだった。
大きな窓。
ソファ。
本棚。
棚の上には、エミリアから贈られたガラス細工。
ソフィアはソファへ身体を預ける。
呼吸が荒い。
顔色も悪い。
それでも瞳だけは強かった。
ヴィクターは数メートル離れた場所で立ち止まる。
長い沈黙。
やがて彼が口を開いた。
「お願いだからやめてくれ」
掠れた声だった。
ソフィアは小さく笑う。
悲しい笑顔だった。
「やめるつもりはないわ」
「どうしてもか」
「どうしてもよ」
即答だった。
ヴィクターは目を閉じる。
彼女は変わらない。
最初から分かっていた。
説得できないことも。
脅しではないことも。
決して引き返さないことも。
ソフィアは静かに言った。
「私は止める」
「何があっても」
「たとえ相手があなたでも」
その言葉が最後だった。
ヴィクターは俯いたまま動かない。
しばらく。
本当に長い沈黙が続いた。
やがて彼は顔を上げる。
その表情からは迷いが消えていた。
残っていたのは悲しみだけだった。
「……そうか」
ソフィアは答えない。
ただ真っ直ぐ彼を見つめている。
昔と同じ目だった。
研究に夢中だった頃の。
正しいと思ったことを絶対に曲げなかった頃の。
ヴィクターはそれを知っていた。
誰よりも。
だからこそ理解してしまう。
彼女は絶対に止まらない。
そして。
自分も止まれない。
◇
どれほど時間が経ったのか分からなかった。
部屋は静まり返っている。
ヴィクターは立ち尽くしていた。
目の前にはソフィア。
もう何も語らない。
もう何も見ていない。
現実感がなかった。
頭の中が空白になる。
やがて視線が自分の手へ落ちた。
震えていた。
「……」
言葉が出ない。
信じられなかった。
本当に終わってしまった。
ソフィアは戻らない。
もう二度と。
ヴィクターはゆっくり目を閉じた。
だが次の瞬間。
別の現実が頭へ流れ込む。
証拠。
内部告発。
利用者名簿。
Forbidden Domain。
アテナ計画。
EDEN。
全てが崩壊する。
ヴィクターはゆっくり顔を上げた。
その瞳から悲しみが消えていく。
代わりに現れたのは冷たい決意だった。
「……守らなければならない」
誰に言うでもなく呟く。
そして彼は動き始めた。
全てを消すために。




