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第25話 消された真実 - Erased Truth -

 夜は深かった。

 高い鉄門の向こうで、洋館の灯りだけが静かに輝いている。

 広い庭。

 古い外壁。

 何十年も変わらない家。

 ソフィアは車を降りると、そのまま玄関へ向かった。

 電子ロックが解除される。

 静かな解錠音。

 扉が開く。

 家の中は暗かった。

 ヴィクターはまだ帰っていない。

 ソフィアは無言のままリビングへ入った。

 大きな窓。

 ソファ。

 本棚。

 そして棚の上には、あのガラス細工が置かれていた。

 半年前。

 エミリアから贈られた誕生日プレゼント。

 透明なガラスの中に小さな花が閉じ込められている。

 ソフィアはしばらくそれを見つめていた。

「ごめんね……」

 誰へ向けた言葉だったのか、自分でも分からなかった。

 エミリアか。

 ヴィクターか。

 それとも。

 かつてこの家にあった幸せな日々か。

 やがて彼女は首を振る。

 感傷に浸っている時間はなかった。

 ソフィアは二階の書斎へ向かった。

 この家で最も長い時間を過ごした部屋だった。

 壁一面の本棚。

 研究資料。

 論文。

 机の上には何台ものモニターが並んでいる。

 そして部屋の隅にはEDEN接続端末が置かれていた。

 神経同期ヘッドセット。

 予備機材。

 保守用ユニット。

 開発者用の検証設備。

 共同開発者だった頃は、ここで何度もテストを行った。

 だが彼女が向かったのはそちらではない。

 デスクの中央に置かれた普通のパソコンだった。

 研究用でもない。

 特別な端末でもない。

 ごく普通のパソコン。

 メールを送るには十分だった。

 椅子へ腰を下ろす。

 ポケットからUSBメモリを取り出した。

 Forbidden Domainからコピーした証拠。

 利用者名簿。

 違法サービス記録。

 アテナ計画。

 全てがその中に入っている。

 USBを接続する。

 モニターへファイル一覧が表示された。

 ソフィアは新規メールを開く。

 送信先。

 警察。

 報道機関。

 監査委員会。

 国際人権団体。

 複数の政府機関。

 件名。

 【EDEN内部告発資料】

 そして本文を書き始めた。

     ◇

 時間だけが過ぎていく。

 壁時計の針が静かに進む。

 ソフィアは一度も席を立たなかった。

 何度も文章を書き直した。

 何度も添付ファイルを確認した。

 間違いがあってはならない。

 これで全てが変わるのだから。

 やがて最後の確認が終わる。

 添付ファイル。

 確認済み。

 送信先。

 確認済み。

 本文。

 問題なし。

 ソフィアはゆっくり息を吐いた。

 画面には送信ボタンが表示されている。

 あと一度押すだけだった。

「終わる……」

 小さく呟く。

 長い悪夢が。

 ようやく終わる。

 その時だった。

 一階で電子ロックが解除される音がした。

 ソフィアの指が止まる。

 静かな足音。

 聞き慣れた足音だった。

 玄関扉が開く。

 やがて階段を上がる音が聞こえた。

 一段。

 また一段。

 ゆっくりと二階へ近付いてくる。

 ソフィアは動かない。

 やがて。

 書斎の前で足音が止まった。

 ドアが開く。

 ヴィクターだった。

 彼は無言のまま立っている。

 ソフィアも何も言わない。

 長い沈黙。

 やがてヴィクターの視線がモニターへ向く。

 添付ファイル。

 送信先一覧。

 メール本文。

 そして理解した。

「……そうか」

 低い声だった。

 ソフィアは椅子に座ったまま答える。

「ええ」

 ヴィクターは部屋へ入ってくる。

「本気なんだな」

「本気よ」

 ソフィアは即答した。

「脅しじゃないわ」

 ヴィクターは黙る。

 ソフィアは画面を見つめたまま続ける。

「メールは書き終わった」

 静かな声だった。

「証拠も全部添付した」

 沈黙。

「もう送信ボタンを押すだけよ」

 部屋の空気が重くなる。

 ヴィクターはしばらく何も言わなかった。

 やがて静かに口を開く。

「まだ間に合う」

 ソフィアは首を振る。

「間に合わないのはあなたよ」

「ソフィア」

「聞きたくない」

 ヴィクターの言葉を遮る。

「私は全部見た」

 その声は震えていた。

「全部よ」

「Forbidden Domain」

「VIP利用記録」

「アテナ計画」

「児童人格モデル」

「全部」

 ヴィクターは目を閉じる。

 だが反論はしなかった。

「あなたは知っていた」

「……」

「知っていて続けていた」

「私は人類を救った」

 ヴィクターは静かに言った。

「何十億人もの人生を変えた」

「そのために何をしたの?」

 ソフィアは振り返る。

 怒り。

 悲しみ。

 失望。

 全てがその瞳に浮かんでいた。

「何人を犠牲にしたの?」

「何人の苦しみを見ないふりをしたの?」

「ソフィア」

「答えて!」

 初めてヴィクターが言葉に詰まる。

 ソフィアは立ち上がった。

「あなたは人類を救ったんじゃない」

「理想を利用しただけよ」

「違う」

「違わない!」

 声が響く。

「私はあなたを信じてた」

「誰よりも」

「エミリアよりも」

「世界中の誰よりも」

 ヴィクターは何も言えなかった。

 ソフィアは続ける。

「でももう分かった」

 涙が浮かぶ。

 だが拭わない。

「あなたは止まれない」

 静かな声だった。

「そして私は見過ごせない」

 長い沈黙。

 やがてソフィアは最後に言った。

「自首して」

 ヴィクターの眉が動く。

「今ならまだ間に合う」

「……」

「全部終わらせましょう」

 ヴィクターは首を振った。

「それは出来ない」

 即答だった。

 迷いは無かった。

 ソフィアは悲しそうに笑う。

「やっぱり……」

 小さく息を吐く。

「そうよね」

 沈黙。

 やがてヴィクターが低く言った。

「やめてくれ」

 ソフィアは振り返らない。

「僕は君を愛している」

 長い沈黙。

 ソフィアの肩が小さく震えた。

 そしてゆっくり振り返る。

「愛している?」

 静かな声だった。

 だがその奥には怒りがあった。

「よくそんな言葉が言えるわね」

 ヴィクターは何も言えない。

 ソフィアは続ける。

「愛している人に嘘をつくの?」

「愛している人から真実を隠すの?」

「愛している人の目を見ながら、あんなことを続けられるの?」

 沈黙。

「違う」

 ソフィアは首を振った。

「あなたが愛しているのは私じゃない」

 ヴィクターの表情が揺れる。

 ソフィアは静かに言った。

「あなたが愛しているのはEDENよ」

「ずっと前から」

 長い沈黙。

 ヴィクターは何も言えなかった。

 ソフィアは全てを悟ったように微笑む。

 悲しい笑顔だった。

 そして静かに椅子へ座り直す。

 モニターへ向き直る。

 右手がマウスへ伸びる。

「私たち――」

 小さな声だった。

「終わりね」

 ヴィクターは動かない。

 ソフィアは送信ボタンへカーソルを合わせる。

 あと一回。

 クリックするだけ。

 それで全てが終わる。

 その瞬間。

 ヴィクターの視線がデスクの端へ落ちた。

 重いガラス製のペーパーウェイト。

 学会記念品だった。

 彼の指先がゆっくりとそれへ伸びる。

 ソフィアは気付いていない。

 画面だけを見つめている。

 送信ボタンまであと数センチ。

 ヴィクターは静かに立ち上がった。

 そして――。

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