表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/38

第24話 分岐点 -The Turning Point-

 ヴィクターのオフィスは静かだった。

 巨大な窓の向こうには夜景が広がっている。

 都市の光。

 無数の車列。

 人々の暮らし。

 その全てを見下ろすような高層階だった。

 ヴィクターは一人、端末へ目を落としていた。

 ドアが勢いよく開く。

 ヴィクターは顔を上げた。

 そこに立っていたのはソフィアだった。

 顔色は青白い。

 呼吸も乱れている。

 震える手にはデータ端末が握られていた。

「……それを見たのか」

 ヴィクターは静かに言った。

 ソフィアの目が怒りで見開かれる。

「見たのかじゃない!」

 彼女は叫んだ。

「何なの、あれは!?」

「何をしているの!?」

 端末が机へ叩き付けられる。

 表示されたままの画面。

《FORBIDDEN DOMAIN》

 ヴィクターは黙っていた。

「人を救うために作ったシステムでしょう!?」

「何であんなものが存在するの!?」

 ヴィクターは小さく息を吐く。

「人格モデルだ」

 ソフィアの顔が歪む。

「……何ですって」

「人格モデルだ」

 ヴィクターは繰り返した。

「手術訓練でも使われている」

「事故対応シミュレーションでも使われている」

「災害医療訓練でも使われている」

「人格モデルは苦痛を感じる」

「恐怖も感じる」

「泣くこともある」

 ソフィアは言葉を失う。

「だが誰も問題にはしなかった」

 静かな声だった。

「その涙と何が違うんだい?」

「違う……」

 ソフィアはかすれた声で答えた。

「違うのよ」

「人を救うためでしょう」

「人類のためでしょう」

 ヴィクターは首を傾げる。

「用途が違うだけだ」

「違う!」

 ソフィアが怒鳴った。

「全然違う!」

「あなたは一線を越えたのよ!」


 ヴィクターは表情を変えない。

 彼は淡々と続けた。

「人格モデルは訓練のために作られた」

「外見だけじゃない」

「骨格」

「筋肉」

「神経」

「内臓」

「血管配置」

「反射反応」

「成長段階ごとの身体特性」

「全て現実と同じように再現されている」

「そうでなければ訓練にならないからだ」


 ソフィアは唇を噛んだ。

「そうよ」

「現実と区別できないレベルで再現した」

「外側だけじゃない」

「内部構造も」

「反応も」

「感覚も」

「全て訓練の精度を上げるためだった」

 その声は震えていた。

「だから目を付けられたのよ」

「決して近付けてはいけない人間たちに」

 ソフィアは震える声で続けた。

「現実では許されない欲望を抱えた大人たちに」


「あなたは知っていた」

「知っていて受け入れた」

 ヴィクターは否定しなかった。

「スポンサーは結果を求める」

「政府も軍も投資家も同じだ」

「理想だけでは世界は動かない」

 彼は立ち上がった。

 窓の外を見つめる。

「君も知っていると思うが、EDENの開発には莫大な資金が必要だった」

「神経同期システム」

「量子演算設備」

「生命維持カプセル」

「維持費だけでも天文学的な額だ」

 ソフィアは黙って聞いている。

「だが資金提供者は現れた」

 ヴィクターは端末へ表示された利用者リストを見る。

「政治家」

「企業経営者」

「投資家」

「軍関係者」

「彼らは喜んで資金を出してくれた」

「その結果が今のEDENだ」

「その見返りがあれだと言うの?」

 ソフィアの声は震えていた。

 ヴィクターは頷く。

「要求は一つだけだった」

「倫理制限の解除だ」

 沈黙。

「たったそれだけで、彼らは莫大な資金を提供した」

「研究は加速した」

「施設は拡張された」

「世界展開も実現した」

 窓の外へ視線を向ける。

「実に金払いの良い顧客だったよ」

 ソフィアは愕然としていた。

「最低だわ……」

「需要は存在した」

 ヴィクターは静かに言った。

「だから資金も集まった」

「それだけの話だ」

「それだけですって!?」

 ソフィアは叫んだ。

「最低だわ!」

「もし私が彼らを拒絶していたらどうなったと思う?」

 ヴィクターは静かに言った。

「EDENは研究室の片隅で終わっていた」

「難病患者も救われなかった」

「教育革命も起きなかった」

「数十億人が受けた恩恵も存在しない」

 彼は振り返る。

「私は理想を汚したのかもしれない」

「だが理想を現実にした」

 ソフィアは首を振った。

「違う」

「あなたは理想を実現したんじゃない」

「理想を利用したのよ」

 ヴィクターの目が細くなる。

「EDENが何を実現したか分かっているか?」

「難病患者を救った」

「教育を変えた」

「医療を変えた」

「犯罪率を下げた」

「戦争被害を減らした」

「数十億人が恩恵を受けている」

 その声に迷いはなかった。

「人類は百年かけて学ぶ」

「千年かけて進歩する」

「だがEDENなら違う」

「一世代で到達できる」

「病気も」

「貧困も」

「戦争も」

「時間が解決する問題だ」

「だから私は時間を作った」

 ソフィアは理解した。

 もう話は通じない。

 目の前にいるのは昔のヴィクターではない。

 MITの研究室で未来を語り合った青年ではない。

 同じ夢を見た共同研究者でもない。

 目的のためなら全てを正当化する男だった。

 やがてソフィアは端末を手に取る。

「公表する」

 ヴィクターの目が細くなる。

「何を?」

「全部よ」

 ソフィアは答えた。

「利用者名簿も」

「違法サービスも」

「アテナ計画も」

「全部」

 ヴィクターは無言だった。

「止めるわ」

 ソフィアは言う。

「たとえ相手が誰でも」

「たとえあなたでも」

 ヴィクターはしばらく彼女を見つめていた。

 やがて低く呟く。

「ソフィア」

「まだ間に合う」

「君は感情的になっている」

「違う」

 ソフィアは首を振った。

「ようやく分かったの」

 その目には涙が浮かんでいた。

 だが声は不思議なほど静かだった。

「私が止めなきゃいけない」

「妻としてでもない」

「共同研究者としてでもない」

「人間として」

 ヴィクターは何も言わない。

 ソフィアは背を向けた。

 ドアへ向かう。

 その足取りに迷いはなかった。

「さようなら」

 小さな声だった。

「ヴィクター」

 そして部屋を出ていく。

 扉が閉まる。

 静寂。

 ヴィクターは一人残された。

 机の上には利用者名簿。

 政治家。

 企業幹部。

 投資家。

 軍関係者。

 世界を動かす人間たち。

 ヴィクターはしばらくそれを見つめていた。

 やがて静かに呟く。

「……人類は救われなければならない」

 その声に迷いはなかった。

 窓の外では夜の街が輝いている。

 だがその光は、どこか冷たく見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ