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第27話 偽りの証拠 - False Evidence -

 ヴィクターはしばらく動かなかった。

 静まり返ったリビング。

 大きな窓の向こうには夜の闇が広がっている。

 床にはソフィアが横たわっていた。

 数分前まで言葉を交わしていた相手だった。

 だが今はもう何も語らない。

 ヴィクターは目を閉じた。

 胸の奥から何かが込み上げてくる。

 悲しみ。

 後悔。

 喪失感。

 様々な感情が渦巻いていた。

 しかし、それらは長く続かなかった。

 現実は残酷だった。

 感傷に浸っている時間などなかったのである。

 ソフィアは死んだ。

 そして彼女は大量の証拠を残している。

 内部告発メール。

 Forbidden Domain。

 利用者名簿。

 アテナ計画。

 人格モデル研究。

 どれか一つでも外部へ流出すれば終わりだった。

 EDENは崩壊する。

 自分が人生の全てを捧げて築き上げた世界が消える。

 ヴィクターはゆっくりと顔を上げた。

 涙は出なかった。

 その代わり、頭の中は異様なほど冷静になっていた。

 まず証拠を回収する。

 それが最優先だった。

 彼は静かにリビングを後にした。

     ◇

 二階の書斎は事件直後のまま残されていた。

 倒れた椅子。

 床を転がるペーパーウェイト。

 乱れた机。

 そして大型モニターが並ぶデスクトップPC。

 ヴィクターは席へ座った。

 内部告発メールは送信されていなかった。

 あと数秒遅ければ終わっていた。

 警察。

 報道機関。

 人権団体。

 送信先の一覧を見ながら、ヴィクターは無言でデータを削除する。

 下書き。

 送信準備ファイル。

 研究記録。

 閲覧履歴。

 関連データ。

 一つ残らず消していった。

 さらに机の引き出しを開く。

 そこには複数のUSBメモリが保管されていた。

 ヴィクターは順番に中身を確認する。

 Forbidden Domain。

 利用者名簿。

 アテナ計画。

 人格モデル研究。

 違法運用記録。

 ソフィアは想像以上に多くの資料を集めていた。

 もし生きていれば、必ず公表していただろう。

 ヴィクターは小さく息を吐いた。

「本気だったんだな……」

 だが手は止めない。

 USBメモリは全て回収した。

 続いてデスクトップPCの初期化を開始する。

 進捗バーがゆっくりと進んでいく。

 保存データ。

 研究記録。

 閲覧履歴。

 ローカルバックアップ。

 全てが消去されていく。

 数分後。

 画面には初期セットアップ画面だけが残った。

 書斎から真実は消えた。

 少なくとも表面上は。

 ヴィクターはPCの電源を落とし、部屋を出た。

     ◇

 階段を下りた時だった。

 玄関ホールに置かれた大きな荷物が目に入る。

 昨日届いたものだ。

 ソフィアが受け取った荷物。

 ヴィクターは立ち止まった。

 しばらく荷物を見つめる。

 そして何かを思い出したように視線を上げた。

 監視カメラ。

 この家にはホームセキュリティシステムが導入されている。

 玄関。

 廊下。

 リビング。

 駐車場。

 全ての映像が記録されている。

 ヴィクターは玄関ホール脇の管理室へ向かった。

 壁一面にモニターが並ぶ小さな部屋だった。

 彼は制御端末を起動する。

 昨日の記録を呼び出した。

 玄関映像。

 再生。

 大型荷物を運ぶ一人の男。

 宅配会社の制服。

 若い男。

 ソフィアが玄関へ出てくる。

 荷物を受け取る。

 短い会話。

 サイン。

 そして男が帰ろうとした時だった。

 ソフィアが彼を呼び止める。

 映像がリビングへ切り替わる。

 ソフィアは冷蔵庫から缶コーヒーを取り出していた。

 男へ渡す。

 男は礼を言う。

 缶を開ける。

 数口飲む。

 そして空き缶をゴミ箱へ捨てた。

 それだけだった。

 何の変哲もない日常の光景。

 だがヴィクターの視線は男へ釘付けになっていた。

 映像を停止する。

 拡大する。

 さらに拡大する。

 配送伝票情報を呼び出す。

 氏名。

 勤務先。

 社員番号。

 全てが表示される。

 ジェイク・ウォーカー。

 ヴィクターはその名前を見つめた。

 数秒。

 十数秒。

 やがて彼の目に冷たい光が宿る。

 可能性。

 解決策。

 生存ルート。

 それらが一本の線で繋がった。

「……そうか」

 小さな呟き。

 そしてヴィクターは静かに立ち上がった。

 玄関脇のゴミ箱へ向かう。

 空き缶はまだ残っていた。

 彼はそれを拾い上げる。

 しばらく見つめる。

 やがて小さく呟いた。

「君にしよう」

 その声に感情はなかった。

 ヴィクターは缶をケースへ収めた。


 そして振り返ることなく家を出た。

     ◇

 深夜。

 EDEN本社。

 最上階。

 研究開発フロア。

 通常なら立ち入り禁止区域。

 しかし彼を止める者はいない。

 ヴィクターは認証端末へ手をかざす。

 重い扉が開いた。

 室内中央。

 巨大な演算システム。

 EDEN開発に使われた神経解析サーバー。

 ヴィクターはケースから缶を取り出す。

 解析装置へ投入。

 生体情報抽出開始。

 進捗バーが動き始めた。

 数分後。

 結果が表示される。

 DNAサンプル取得完了。

 ヴィクターは次の画面を開く。

House Simulation。

Kane Residence Model。

かつてソフィア自身が作った仮想空間だった。

ヴィクターとソフィアが暮らしていた自宅。

壁。

家具。

照明。

配置。

監視カメラの位置。

全てが現実と同じだった。


 さらに別のフォルダを開く。

 Sophia Personality Model。

 研究用人格モデル。

 ヴィクターの指が止まる。

 一瞬だけ。

 本当に一瞬だけ。

 だが彼は何も言わない。

 そして最後の項目を選択する。

 Jake Walker Profile Generation。

 配送記録。

 顔画像。

 音声サンプル。

 行動履歴。

 公開データ。

 取得可能な情報が集められていく。

 AI人格生成開始。

 演算開始。

 シミュレーション開始。

 巨大スクリーンへ仮想空間が表示された。

 玄関。

 リビング。

 ソフィア。

 ジェイク。

 会話。

 衝突。

 結果。

 失敗。

 再試行。

 失敗。

 再試行。

 失敗。

 再試行。

 数千回。

 数万回。

 パターンが繰り返される。

 やがて画面が停止した。

 評価値。

 有罪認定予測率。

 97.4%。

 ヴィクターは結果を見つめる。

 画面の中では。

 ジェイクが呆然と立ち尽くしていた。

 床には倒れたソフィア。

 そして逃げ出していくジェイク。

 完璧だった。

 誰が見ても疑わない。

 監視カメラ映像そのものだった。

 ヴィクターはしばらく画面を見つめる。

 やがて。

 静かに再生を停止した。

「これでいい」

 その声に感情はなかった。

 巨大スクリーンの光だけが。

 静かな研究室を照らしていた。

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