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第22話 アテナ計画 -Project Athena-

 モニターには新しいファイル名が表示されていた。

 白い文字。

 無機質なフォント。

 だが、その名前を見た瞬間、エミリアの表情が僅かに曇る。

Project Athena

 ジェイクは椅子にもたれたまま尋ねた。

「また問題のある計画か?」

「姉さんはそう考えていたみたい」

 エミリアはファイルを開く。

 画面が切り替わる。

PROJECT ATHENA

Experimental Cognitive Acceleration Program

(実験的認知加速プログラム)

Security Level : S-K

(機密レベル S-K)

 ジェイクは眉をひそめた。

「認知加速?」

「高速学習ね」

 エミリアは資料を読み進める。

「語学」

「数学」

「科学」

「医学」

「工学」

「経営」

「芸術」

「スポーツ」

「武術」

「その他専門技能」

 ジェイクは苦笑した。

「なんでもありか」

「そう」

 エミリアは頷く。

「しかも効果は本物だった」

 次のページが表示される。

Subjective Time Acceleration

(主観時間加速)

1000x

 ジェイクは目を細めた。

「千倍?」

「現実で一日」

「本人には約三年」

 エミリアは続ける。

「現実で四日」

「本人には十年以上」

 ジェイクは黙った。

 刑務所で三十年を経験した自分だからこそ、その数字の異常さが分かる。

 三年。

 十年。

 それは決して短い時間ではない。

 人生そのものだ。

「つまり……」

 ジェイクはモニターを見る。

「学校に三年間通う代わりに」

「一日で済ませるってことか」

「理論上はね」

 エミリアは別の資料を開く。

Case Study : A-17

(実験事例 A-17)

 十七歳。

 平均的な高校生。

 成績は普通。

 特別な才能もない。

 どこにでもいる少年だった。

 その少年がアテナ計画へ参加する。

 主観時間十年。

 現実時間四日。

 結果。

 英語。

 中国語。

 スペイン語。

 ロシア語。

 四か国語を習得。

 大学レベル数学。

 プログラミング。

 経済学。

 基礎医学。

 複数分野の専門知識。

 ジェイクは思わず画面を見直した。

「嘘だろ」

「嘘じゃない」

 エミリアは静かに言った。

「本人は十年間勉強したのよ」

 ジェイクは腕を組む。

「つまり天才になった」

「違う」

 エミリアは即座に否定した。

「天才になったんじゃない」

 少しだけ間を置く。

「時間を買っただけ」

 部屋が静まり返る。

 ジェイクは反論できなかった。

 確かにそうだ。

 十年あれば人は変わる。

 十年あれば知識も身につく。

 アテナ計画は才能を与えたのではない。

 人生を前借りしただけだった。


 だが。

 次のページで空気が変わった。

 ジェイクもそれを感じた。

 画面に表示されたタイトルは、先ほどまでの成功事例とは明らかに雰囲気が違っていた。

User Feedback

(利用者フィードバック)

 利用者から寄せられた要望。

 改善要求。

 追加機能の提案。

 そんな内容が並んでいる。

 エミリアは資料を読みながら小さくため息をついた。

「……予想通りね」

 ジェイクも画面へ目を向ける。

1000x is not enough.

(1000倍では足りない)

Request 5000x.

(5000倍を要求)

Request 10000x.

(10000倍を要求)

Maximum acceleration desired.

(最大加速を希望)

 ジェイクは顔をしかめた。

「正気かよ」

「人間は慣れるの」

 エミリアは淡々と答える。

「三年が当たり前になれば十年を求める」

「十年が当たり前になれば百年を求める」

「百年が当たり前になれば、その先を求める」

 ジェイクは苦々しく笑った。

 刑務所でも同じだった。

 最初は一日が長い。

 やがて一週間に慣れる。

 一か月に慣れる。

 そして三十年にすら慣れてしまう。

 人間は適応する生き物だった。

 それが長所であり、時に恐ろしい欠点でもある。

 エミリアは次のページを開いた。

Incident Report

(事故報告)

 タイトルの横には赤い警告マークが表示されている。

 ジェイクは眉をひそめた。

「成功例じゃないな」

「ええ」

 エミリアは頷いた。

「ここからが姉さんの問題視していた部分よ」

 最初の報告書が表示される。

Participant A

Subjective Duration : 55 Years

Real-World Duration : 2 Days

Result : Loss of Consciousness

Recovery Time : 3 Weeks

 ジェイクは思わず額を押さえた。

「五十五年生きて二日後に目覚めるのか」

「本人にとってはそういう感覚だった」

 エミリアは静かに言う。

「脳は五十五年分の記憶を保持したまま現実へ戻される」

 ジェイクは苦い顔をした。

「それだけで壊れそうだな」

 次の報告書が表示された。

Participant B

Subjective Duration : 120 Years

Real-World Duration : 5 Days

Result : Severe Personality Alteration

Unable to Recognize Family Members

 部屋が静まり返る。

 ジェイクは最後の一文を読み返した。

 家族を認識できず。

 ゆっくりと顔を上げる。

「忘れたのか?」

「少し違う」

 エミリアは首を振った。

「もっと深刻だった」

 だがジェイクには別の疑問があった。

「待て」

「百二十年も生きたなら老人になってるはずだろ」

 エミリアは資料を開いた。

Athena Avatar Configuration

(アテナ・アバター設定)

Age Lock : Enabled

(年齢固定:有効)

 ジェイクは眉をひそめる。

「年齢固定?」

「学習効率を維持するための機能よ」

 エミリアは説明した。

「十七歳で参加したなら」

「百年後も十七歳の姿のまま」

「肉体的な老化は発生しない」

 ジェイクは腕を組む。

「じゃあ何が変わる」

 エミリアは少しだけ視線を落とした。

「記憶」

「経験」

「人格」

 静かな声だった。

「百二十年分の人生を生きれば」

「身体が変わらなくても」

「中身は変わる」

 ジェイクは黙った。

 その感覚は理解できた。

 三十年。

 たった三十年ですら、自分は別人になりかけた。

 百二十年ならどうなる。

 想像するだけで背筋が寒くなる。

 エミリアは詳細報告を開いた。

「本人にとっては百年以上が経過していた」

「妻は何十年も前に死んだ感覚だった」

「子供たちも遠い過去の存在になっていた」

「孫ですら、歴史上の人物のように感じていた」

 そして。

「その状態で現実へ戻された」

 ジェイクは目を閉じた。

 理解できる。

 家族を忘れたわけではない。

 家族のいない人生を、あまりにも長く生きすぎたのだ。

 次の報告書が表示される。

Participant C

Subjective Duration : 212 Years

Real-World Duration : 7 Days

Result : Complete Psychological Collapse

 ジェイクは小さく息を吐いた。

「当然だな」

 低い声だった。

「二百年以上生きた人間が」

「元の人生へ戻れるわけがない」

 誰も反論しなかった。

 モニターには事故報告が続いている。

 失神。

 人格変調。

 記憶障害。

 精神崩壊。

 成功例の華やかさとは対照的な記録だった。

 やがて別のファイルが表示される。

 ソフィアの認証コード付き文書。

 タイトルは簡潔だった。

Sophia Kane — Evaluation Report

(ソフィア・ケイン 評価報告書)

 二人は黙って読み始める。

Human cognition has limits.

(人間の認知能力には限界がある)

Learning speed can be accelerated.

(学習速度は加速できる)

Human identity cannot.

(だが人格の連続性は加速できない)

 ジェイクはゆっくりと読み返した。

 短い文章だった。

 だが事故報告の全てが、その三行を裏付けていた。

 さらに続きが表示される。

Project Athena improves ability.

(アテナ計画は能力を向上させる)

However, it may destroy the individual who gains that ability.

(しかし、その能力を得た本人を破壊する可能性がある)

 ジェイクは椅子にもたれた。

「珍しく姉さんと同意見だ」

 エミリアも小さく笑う。

「私もよ」

 ソフィアは反対した。

 それは正しかったのだろう。

 能力の向上と引き換えに人格を失うなら、それは進化ではない。

 別の人間への置き換えに近い。

 やがて最後のページが表示された。

Recommendation

(提言)

Terminate Project Athena.

(アテナ計画を中止せよ)

Do Not Authorize Public Deployment.

(一般運用を認可してはならない)

 部屋に静寂が戻る。

 だが、それも長くは続かなかった。

 エミリアの視線が、画面の下部で止まったからだ。

 表情が変わる。

 ジェイクもそれに気付いた。

「どうした?」

 エミリアは答えない。

 ただ画面を見つめている。

 アテナ計画の資料群のさらに下。

 そこに、一つだけ別のフォルダが存在していた。

Forbidden Domain

(禁断領域)

 ジェイクは眉をひそめた。

「なんだ、その名前は」

 エミリアは数秒黙ったままだった。

 そして小さく呟く。

「……嫌な予感がする」

 モニターの白い光だけが二人の顔を照らしていた。

 部屋の空気は、先ほどまでとはまるで違っていた。

 まるで。

 これまで見てきた全てが前座だったかのように。

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