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第21話 楽園の住人 -Residents of Paradise-

 部屋の中は静まり返っていた。

 古いデスクライトだけが、薄暗い研究室の一角を照らしている。

 モニターには、ソフィアが残した調査資料が表示されたままだった。

《人類はやがて、現実そのものを捨てようとする》

 その一文が、ジェイクの頭から離れなかった。

 エミリアは小さく息を吐く。

 そして次のフォルダを開いた。

《Permanent Residency》

 ジェイクが眉をひそめる。

「永住?」

「ええ」

 エミリアは頷いた。

「姉さんが調査していた長期接続利用者たちよ」

 クリック音。

 画面が切り替わった。

          *

《EDEN Long-Term Residency Program》

《永久接続利用者管理資料》

《機密レベル:S-K》

 ジェイクは画面を見つめた。

「永久接続……」

「待てよ」

「それって現実へ戻らないってことか?」

「そういうことになるわね」

 エミリアは静かに答えた。

 ジェイクは呆れたように笑う。

「正気じゃねぇ」

「俺なんか一日でも早くあの刑務所から出たかったのによ」

「死ぬまでカプセルの中なんて、ごめんだ」

 画面には利用者名簿が表示されていた。

 利用者番号。

 接続開始日。

 同期設定。

 帰還権限。

 そして。

《帰還予定:未定》

 その文字。

 ジェイクは鼻を鳴らした。

「未定じゃない」

「帰る気がないんだろ」

 エミリアは否定しなかった。

 スクロール。

 さらに名前が並ぶ。

 ジェイクは途中で目を止めた。

「この名前……」

 世界的企業グループ創業者。

 長期療養中と報じられていた人物だった。

 さらに。

 著名な投資家。

 有名芸術家。

 財団代表。

 社会から姿を消した人間たち。

 その名が並んでいた。

「まさか……」

 ジェイクは言葉を失う。

 彼らは死んだのではなかった。

 引退したのでもなかった。

 EDENの中で暮らしていたのだ。

          *

 エミリアは一つの記録を開いた。

《Resident Monitoring Record》

《Subject No.074》

 映像が表示される。

 青空。

 海。

 白い砂浜。

 穏やかな波音。

 海辺のテラスに、一人の男が座っていた。

 五十代ほどに見える。

 健康そのものだった。

 男はコーヒーを口へ運び、満足そうに微笑んだ。

「こいつが?」

 ジェイクが呟く。

「現実では八十六歳」

 エミリアが答えた。

「重度の心疾患」

「歩行不能」

「ほぼ寝たきりだったみたい」

 ジェイクは黙り込む。

 映像の男は、とても病人には見えなかった。

 むしろ若い。

 活力に満ちている。

「……味も分かるのか」

「分かるわ」

 エミリアは別の資料を表示した。

《神経同期接続》

《高同期率・知覚固定モード》

《現実認識:保持》

《五感同期:最大》

 ジェイクは目を細めた。

 聞き慣れない専門用語だった。

 だが意味は理解できる。

 エミリアは説明を続けた。

「視覚」

「聴覚」

「触覚」

「味覚」

「嗅覚」

「全部が同期される」

「本人にとっては本物なの」

 モニターの中で男が海を見つめる。

 風が髪を揺らす。

 コーヒーの湯気が立つ。

「でも仮想世界なんだろ」

「知識としては理解している」

 エミリアは頷いた。

「自分の身体が現実の施設にあることも」

「ここがEDENだということも」

「全部知っている」

 ジェイクは眉をひそめる。

「じゃあ、なんで戻らない」

「知識と体験は別だから」

 エミリアは静かに答えた。

「本人にとっては、海風もコーヒーも現実なの」

 ジェイクはモニターを見つめた。

 男の表情は穏やかだった。

 偽物の幸福には見えなかった。

          *

 エミリアは次の画面を表示する。

《Emergency Return Device》

《帰還権限:維持》

《利用者の手の届く範囲に常時配置》

 ジェイクは少し驚いた。

「帰還デバイスまで持ってるのか」

「ええ」

「押せば現実へ戻れる」

「でも戻らない」

 短い沈黙。

 ジェイクは再びモニターを見る。

 海辺の男は笑っていた。

 本当に幸せそうだった。

          *

 やがて映像が切り替わる。

 今度は現実世界だった。

 巨大な施設。

 高い天井。

 無数に並ぶカプセル。

 規則正しく点滅する監視ランプ。

 静かな機械音。

 どこまでも続く白い空間。

 ジェイクの表情が変わった。

「……ここ」

 声が低くなる。

「見覚えがある」

「あなたがいた施設と同じ系列よ」

 エミリアが答える。

 映像は一基のカプセルへ近づいた。

 中で老人が眠っている。

 痩せ細った身体。

 深い皺。

 白髪。

 生命維持チューブ。

 神経同期接続装置。

 先ほど海辺で笑っていた男だった。

 ジェイクは言葉を失った。

 あまりにも違う。

 同じ人間とは思えないほどだった。

 ソフィアの記録音声が流れる。

『対象者は現実への帰還意思を示していない』

『本人は現在の状態を幸福と認識している』

『強制帰還は重度の精神障害を引き起こす可能性が高い』

 静かな声だった。

 だが重かった。

          *

「なあ」

 ジェイクが呟く。

「もし俺が八十六歳だったとして」

「寝たきりで」

「毎日ベッドの上だけだったら」

 エミリアは何も言わない。

「俺も向こうを選ぶかもしれねぇな」

 その言葉は、彼自身にも意外だった。

 EDENを憎んでいる。

 あの刑務所には二度と戻りたくない。

 それでも。

 今見た光景を否定することはできなかった。

          *

 映像が消える。

 部屋に静寂が戻った。

 ジェイクはしばらく黙り込んでいた。

 やがて口を開く。

「なあ」

「これの何が悪い」

 エミリアは顔を上げた。

 ジェイクはモニターを指差す。

「本人は幸せなんだろ」

「仮想世界だって知ってる」

「帰還デバイスも持ってる」

「押せば戻れる」

「でも戻らない」

 短い沈黙。

「だったら……」

 その先が続かなかった。

 エミリアも答えられない。

 ソフィアも同じだったのだろう。

 だからこの資料は残された。

 答えが出なかったから。

          *

 最後のページが表示される。

《問題点》

《対象者は幸福である》

《仮想世界であることも認識している》

《帰還権限も維持されている》

《しかし現実社会へ戻らない》

《利用者数は増加傾向》

《社会機能維持への長期的影響》

《倫理判断困難》

 短い文章。

 だが重かった。

 ジェイクは苦笑する。

「つまり」

「みんな楽園へ逃げるってことか」

「姉さんは、それを恐れていた」

 エミリアが静かに答える。

 ジェイクはモニターを見つめた。

 EDENは人を不幸にするだけのシステムではない。

 むしろ逆だった。

 人を幸福にしすぎる。

 だから戻らなくなる。

 それこそが、ソフィアの恐れた未来だった。

 しばらくして。

 エミリアは次のファイル名に目を止めた。

《Project Athena》

 その瞬間。

 彼女の表情がわずかに変わった。

「まだあるのか」

 ジェイクが呟く。

 エミリアは小さく頷いた。

「ええ」

「これは……アテナ計画よ」

 モニターの白い光が、二人の顔を冷たく照らしていた。

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