第18話 創世記 -Genesis-
暗闇。
何も見えない。
だが音だけが聞こえていた。
『生命反応安定』
『神経接続準備』
『同期率上昇開始』
低い機械音。
遠くで誰かが話している。
身体が重い。
動かない。
冷たい。
エミリアはぼんやりと思った。
――ここはどこ?
だが答えは返ってこない。
意識が沈む。
浮かぶ。
また沈む。
その度に、断片的な記憶が脳裏を流れていった。
*
若い頃のソフィアが笑っていた。
『絶対に実現できるわ』
研究室。
散らばる電子基板。
空中モニター。
数式。
脳波パターン。
そして。
隣には若いヴィクターがいた。
『もし完全同期が成功すれば』
『人間は仮想世界を現実として認識する』
ソフィアが頷く。
『医療にも使える』
『精神治療にも』
『事故で身体を失った人も救えるかもしれない』
ヴィクターは笑った。
『刑務所も変わる』
『戦争も変わる』
『世界そのものを変えられる』
二人は本気だった。
本当に。
*
場面が変わる。
MIT。
深夜の研究室。
若い学生たち。
ソフィア。
ヴィクター。
そして。
少し年下のエミリア。
『また徹夜?』
呆れたように言う。
ソフィアが笑った。
『ヴィクターが止まらないのよ』
『いや、止まらないのは君だろ』
『どっちも同じよ』
三人は笑った。
あの頃は、まだ良かった。
本当に。
*
『またセキュリティ壊したの?』
ソフィアが呆れたように言った。
十五歳のエミリアは悪びれもせず肩をすくめる。
『壊したんじゃないわ』
『欠陥を見つけただけ』
『三時間で?』
『二時間半』
ヴィクターが吹き出した。
『君の妹は怪物だな』
『でしょう?』
ソフィアはどこか誇らしそうだった。
エミリアは当時すでにMITへ飛び級入学していた。
史上最年少クラス。
十三歳で大学レベルの数学を修了。
十五歳でMIT特別研究課程へ参加。
ソフィアですら、
「この子は私より危険かもしれない」
と笑っていた。
エミリアには才能があった。
ただ学ぶ才能ではない。
構造を見抜く才能。
理論の欠陥を見つける才能。
そして。
システムを壊す才能だった。
*
再び暗闇。
機械音。
『同期率42%』
『記憶圧縮開始』
頭が痛い。
何かが削れていく。
大切なものが遠ざかる。
エミリアは苦しそうに眉を歪めた。
そしてまた、別の記憶が流れ込む。
*
巨大スクリーン。
記者会見。
《EDEN》
ロゴが映し出される。
歓声。
拍手。
フラッシュ。
『これは人類の未来です』
ヴィクターが演説していた。
『苦痛を減らす技術』
『限界を超える技術』
『人類を次の段階へ進める技術です』
会場は熱狂していた。
だが。
ソフィアだけは笑っていなかった。
エミリアは覚えている。
あの日から。
姉の表情が少しずつ変わり始めたことを。
*
『ヴィクター』
ソフィアの声。
『これは違うわ』
『私たちはこんなものを作りたかったんじゃない』
ヴィクターは静かに答える。
『理想だけじゃ世界は変わらない』
『人は苦痛を恐れる』
『だから強制が必要なんだ』
『それは救済じゃない』
『管理よ』
沈黙。
そして。
『何が違う?』
ヴィクターが笑った。
『苦しむ人間が減るなら同じだろう?』
ソフィアは何も言わなかった。
だが。
エミリアは覚えている。
あの日。
姉が初めてヴィクターを恐れた目をしていたことを。
*
『同期率68%』
『知覚固定準備』
『人格同期開始』
頭の奥で何かが軋む。
記憶。
名前。
時間。
境界線。
全てが曖昧になっていく。
エミリアは何かを思い出そうとした。
だが掴めない。
ソフィア。
ヴィクター。
研究。
約束。
全てが霧の向こうへ消えていく。
*
薄れゆく意識の中で。
ヴィクターの声が聞こえた。
『君は優秀だ』
穏やかな声だった。
『ソフィアと同じくらいにね』
エミリアは彼を睨もうとした。
だが身体が動かない。
『だが、君は危険すぎる』
静かな声。
『君なら、いずれ私の計画へ辿り着く』
ヴィクターは続ける。
『だから邪魔はさせない』
視界がさらに暗くなる。
『EDENで眠っているといい』
『肉体が朽ちる、その日まで』
エミリアの指先が微かに震えた。
だが。
もう何も出来なかった。
*
『同期率91%』
『高同期率モード移行』
『知覚固定開始』
白い光。
何も見えない。
思考が崩れる。
エミリアは必死に何かを掴もうとした。
だが。
消えていく。
姉の顔。
研究室。
笑い声。
夢。
全部。
『記憶固定処理開始』
冷たい機械音。
その瞬間だった。
ソフィアの声が聞こえた気がした。
『忘れないで』
エミリアは目を見開く。
だが。
もう遅かった。
世界が白く塗り潰される。
*
暗闇。
冷たい空気。
鉄格子。
湿った臭い。
エミリアはゆっくり目を開けた。
知らない天井。
知らない部屋。
頭が重い。
自分が誰なのかさえ曖昧だった。
遠くで誰かの怒鳴り声が聞こえる。
囚人たちの笑い声。
足音。
鉄の音。
エミリアはぼんやりと呟いた。
「……ここは……?」
答える者はいない。
記憶は霧の中だった。
ただ。
いくつかだけ残っている。
自分は技術者だった。
そして。
姉がいた。
それだけだった。




