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第16話 現実世界 -Real World-

 自動ドアが静かに開いた。

 冷たい夜風が吹き込む。

 ジェイクは思わず足を止めた。

 空があった。

 本物の空だった。

 仮想空間の背景ではない。

 巨大なディスプレイでもない。

 どこまでも続く夜空。

 流れる雲。

 淡い月明かり。

 三十年ぶりの現実。

 ジェイクはしばらく言葉を失った。

 脳は三十年を生きた。

 だが肉体は違う。

 現実では、まだ十一日しか経っていない。

 世界は何も変わっていない。

 変わったのは自分だけだった。

「……外だ」

 掠れた声が漏れる。

 エミリアが小さく頷く。

「ええ」

「本当に外」

 ジェイクは空を見上げた。

「変な気分だな」

「何が?」

「全部だ」

 苦笑する。

「俺にとっちゃ三十年ぶりなのに」

「世界は何事もなかった顔してやがる」

 遠くを車が走る。

 高層ビルの灯りが瞬く。

 誰もこちらを見ていない。

 誰も知らない。

 十一日前に逮捕された男がここにいることを。

 誰も知らない。

 その男が三十年の人生を刑務所で過ごしたことを。

 エミリアは夜空を見上げた。

「私も同じよ」

 静かな声だった。

「二十一年ぶりの現実だから」

 ジェイクは顔を向ける。

「そんなにいたのか」

「ええ」

 エミリアは苦笑した。

「途中から数えるのもやめたけど」

 短い沈黙。

 二人とも失った時間を知っている。

 だから慰めの言葉は出てこなかった。

「行きましょう」

 エミリアは社員証を取り出した。

 小さく息を吐く。

「よかった」

「何がだ?」

「まだ有効だった」

 社員証を軽く振る。

「現実では一週間くらいしか経ってないもの」

「停止処理されてないみたい」

「そりゃ助かるな」

 エミリアは施設案内図へ視線を向けた。

「こっち」

「どこへ行く?」

「駐車場」

 二人は通路を進む。

 やがて地下駐車場へ続くゲートが見えてきた。

 エミリアは認証端末へ社員証をかざす。

 電子音。

 ロックが解除された。

「便利なもんだな」

「便利というより横着ね」

 エミリアは肩をすくめる。

「社員証一枚で大抵のことは出来るから」

 駐車場の奥から一台の黒い車が静かに近づいてきた。

 流線型のボディ。

 無駄のないデザイン。

 高級車特有の存在感がある。

 車は二人の前で停止した。

 ドアが自動で開く。

 ジェイクは口笛を吹いた。

「良い車だな」

「会社の車よ」

「研究者って儲かるんだな」

「違うわ」

 エミリアは苦笑した。

「儲かってるのは会社」

「そりゃそうか」

 二人は車へ乗り込んだ。

 ドアが閉まる。

《目的地を入力してください》

 エミリアは住所を入力した。

 数秒後。

《到着予定時間 二十二分》

《ルートを設定しました》

 車が静かに走り出した。

          *

 窓の外を街が流れていく。

 ジェイクは眉をひそめた。

 巨大な立体広告。

 空中ディスプレイ。

 駅前モニター。

 どこを見ても同じ企業名が映っている。

《EDEN》

《人生をもう一度》

《限界のその先へ》

 ジェイクは鼻で笑った。

「相変わらず派手だな」

「昔より増えたわ」

 エミリアは苦い顔をした。

 広告が切り替わる。

《医療用シミュレーションシステム》

《次世代教育プラットフォーム》

《認知症リハビリ支援》

《企業研修プログラム》

《仮想観光サービス》

 ジェイクは広告を見上げた。

「全部EDENか?」

「全部よ」

 エミリアは頷く。

「刑務所だけじゃない」

「病院も」

「学校も」

「企業も」

「軍も」

「政府機関も使ってる」

 ジェイクは黙った。

 EDENの名前は知っている。

 刑務所へ送られる前にもニュースで何度も見た。

 仮想更生刑務所。

 再犯率を劇的に下げた未来の矯正システム。

 だが実際には、その枠を遥かに超えていた。

「ニュースで名前くらいは見てたが……」

「ここまでとは思わなかった」

 エミリアは頷く。

「社会そのものに組み込まれてる」

「もうEDENなしでは回らないくらいに」

「便利だからか」

「ええ」

 エミリアは窓の外を見た。

「人は便利なものを手放さないから」

          *

 しばらく沈黙が続いた。


 車は夜の街を滑るように進む。

 やがてエミリアが口を開いた。

「最初のEDENは刑務所じゃなかった」

「だろうな」

 ジェイクは即答した。

「あんなもんを最初から作ろうって奴はいねぇ」

 エミリアは少しだけ笑う。

「同感」

 そして窓の外へ視線を向けた。

「身体の動かない子供がいたの」

「生まれつきの病気で歩けない子」

「でもEDENの中では走れた」

 ジェイクは黙って聞いていた。

「海にも行けた」

「山にも登れた」

「友達とも遊べた」

「現実では出来なかったことを全部体験できた」

 夜景が流れていく。

「それが始まりだった」

 エミリアは静かに続けた。

「医療分野でも成果が出た」

「外科医は難手術を何度でも練習できる」

「PTSD患者の治療」

「脳損傷患者のリハビリ」

「認知症患者の記憶訓練」

 どれも人を救う技術だった。

 少なくとも最初は。

「姉さんは本気だった」

 エミリアの声が少し柔らかくなる。

「本当に人を助けたいと思っていた」

「世界を良くしたいと思っていた」

 短い沈黙。

「子供の頃からそういう人だった」

 ジェイクは黙った。

 まだ会ったこともない女性。

 だが少しだけ人物像が見えた気がした。

「ヴィクターもか?」

 エミリアはしばらく黙った。

 そして答える。

「最初は」

 その一言だけだった。

「姉さんと同じ夢を見ていた」

 車内に静寂が戻る。

「だから分からないの」

 エミリアは窓の外を見たまま言った。

「いつから変わったのか」

「どこで間違えたのか」

 ジェイクは小さく息を吐いた。

 理想は利益になる。

 利益は権力になる。

 権力は執着になる。

 そんな話は珍しくもない。

「会えば分かるさ」

 ジェイクは言った。

 エミリアが振り向く。

「何が?」

「どんな人間になったのか」

 短い沈黙。

 そしてエミリアは小さく笑った。

「そうね」

          *

 やがて車が速度を落とした。

《目的地付近に到着しました》

 窓の外に高い塀が見える。

 広い庭。

 古い洋館。

 静かな屋敷。

 ジェイクは息を呑んだ。

 見覚えがあった。

 忘れられるはずがない。

 雨の日。

 荷物。

 玄関。

 そして逮捕。

 全てが始まった場所。

「……まさか」

 エミリアは静かに頷く。

「あれがヴィクターの家」

 ジェイクは屋敷を見つめた。

 胸の奥がざわつく。

 あの日、自分はここへ荷物を届けた。

 そして人生を奪われた。

「元々は私と姉さんの家だった」

 エミリアが言う。

「実家か」

「ええ」

「姉さんがヴィクターと結婚して、そのまま住むようになった」

 車が停止する。

 ドアが開いた。

 エミリアは屋敷を見上げた。

「帰ってきたわ」

 その声は懐かしさと痛みが混ざっていた。

 ジェイクは静かに車を降りる。

 真実はこの屋敷の中にある。

 二人は門へ向かって歩き出した。



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