第14話 上書き ― Override ―
現実世界。
巨大なEDEN管理施設。
白い照明が果てしなく続く空間を照らしていた。
無数の機械音。
規則正しく響く駆動音。
冷たく乾いた空気。
ジェイクは床へ膝をつき、激しく咳き込んでいた。
「――っ、げほっ……!」
三十年。
鉄格子。
煙草の煙。
血の臭い。
怒鳴り声。
囚人たちの罵声。
看守の靴音。
それら全てが、まだ身体の中へこびり付いているような感覚だった。
だが現実では違う。
あの地獄の三十年は、わずか十一日間に過ぎなかった。
頭が理解を拒んでいる。
感覚と現実が噛み合わない。
「……クソッ」
吐き捨てるように呟いた。
次の瞬間。
施設内へ鋭い警報音が響き渡る。
《警告》
《警告》
《収監者所在不明》
《ジェイク・ウォーカー》
《所在確認失敗》
《エミリア・クロフト》
《所在確認失敗》
《仮想区画内対象消失》
《追跡プロトコル起動》
赤い回転灯が一斉に点灯した。
白一色だった施設が瞬く間に赤く染まる。
ジェイクは顔を上げた。
「……消失?」
その言葉の意味を理解するより早く、エミリアはすでに立ち上がっていた。
足元はまだ覚束ない。
それでも周囲の端末群へ視線を走らせている。
そこにいたのは、仮想刑務所で怯えていた女ではない。
技術者だった。
システムを設計した人間の目。
「私たちよ」
エミリアは即座に答えた。
「私たちはもう、あの世界にいない」
「だからシステムが異常を検知しているの」
ジェイクは舌打ちする。
「じゃあ終わりじゃねぇか」
「まだよ」
エミリアは振り返らない。
警報表示を確認しながら続ける。
「EDENは囚人の脱獄なんて想定していない」
「異常の原因を特定するまで時間がかかる」
「その隙を利用する」
「利用する?」
「上書きするの」
ジェイクは眉をひそめた。
「どこへ行く」
「管理端末」
エミリアは歩き出した。
いや、ほとんど駆け出すと言っていい。
「仮想世界と現実世界では時間の流れが違う」
「向こうは千倍速」
「今この瞬間にも追跡処理は進んでいる」
「急がないと間に合わない」
*
ジェイクは何度も壁へぶつかりそうになる。
三十年使い続けたはずの身体。
だが、それは仮想世界の身体だった。
現実の肉体は十一日間、一度も動いていない。
脳と身体が噛み合わない。
平衡感覚がおかしかった。
しかしエミリアは違った。
迷いがない。
施設構造を完全に把握している人間の動きだった。
「こっち!」
曲がり角を指差す。
ジェイクは必死に後を追う。
「やけに慣れてるな……」
息を切らしながら言う。
エミリアは振り返らず答えた。
「設計した側だから」
短い言葉だった。
だが重かった。
ジェイクは一瞬だけ口を閉ざす。
彼女がただの囚人ではないことを、改めて思い知らされる。
*
管理区画。
白い自動ドアが現れる。
エミリアは迷わず端末へ手を伸ばした。
認証画面が起動する。
《管理者IDを入力してください》
ジェイクは息を呑んだ。
エミリアの指が高速でキーボードを叩く。
画面が目まぐるしく切り替わる。
そして――
《EMILIA CROFT》
《権限確認中》
数秒。
異様に長く感じる沈黙。
やがて表示が変わった。
《権限承認》
ジェイクは目を見開く。
「……通ったのか?」
「よかった……」
エミリアは小さく息を吐いた。
「まだ削除されていない」
その声には安堵と戸惑いが混じっていた。
エミリアは一瞬だけ目を閉じた。
だが次の瞬間には、すでに作業へ戻っていた。
迷いはない。
モニターへ次々とウインドウが展開される。
赤い警告表示。
追跡プロトコル。
異常検知ログ。
大量の情報が高速で流れていく。
エミリアの指は止まらなかった。
《収監者所在確認失敗》
《対象二名》
《仮想区画内対象消失》
《追跡プロトコル準備中》
さらに別の画面が開く。
《見学者意識復帰エラー》
《対象二名》
《同期不整合》
ジェイクは眉をひそめた。
「……見学者?」
「老夫婦よ」
エミリアは視線をモニターへ固定したまま答える。
「私たちが入れ替わった二人」
「先に戻さないと不自然になる」
「戻す?」
「本来いるべき場所へ」
キーボードを叩く速度がさらに上がる。
まるでピアノ演奏だった。
モニター上へ新たなウインドウが現れる。
《記憶補正プロトコル開始》
《帰還同期修正》
《見学セッション再接続》
ジェイクは顔をしかめた。
「何してる?」
「記憶を書き換えてる」
エミリアは淡々と言った。
「老夫婦の記憶から私たちを消す」
「会った事実そのものを上書きするの」
ジェイクは嫌そうな顔になる。
「そんなことまで出来るのか」
「出来る」
エミリアの声には感情がなかった。
「EDENはそういうシステムだから」
少しだけ間を置く。
「都合の悪い記憶を消すくらい、昔からやっている」
ジェイクは返す言葉を失った。
刑務所よりも恐ろしい。
そんな考えが頭をよぎる。
人の記憶を編集する世界。
それがEDENだった。
*
白い椅子が並ぶ見学ルーム。
十数人の見学客たちは、頭部へ装着した同期ヘッドセットを外されながら、次々と意識を取り戻していた。
「うわ……」
「本当に現実みたいだったな」
「すげぇな、EDEN」
感嘆の声があちこちから上がる。
職員が慣れた様子で説明した。
「EDEN内では長時間滞在した感覚がありますが、現実では同期を含めて三分ほどしか経過していません」
「三分!?」
初参加らしい若い男が目を丸くする。
「ええ。向こうで数時間過ごしても、こちらでは十秒程度です」
周囲から感心したような声が漏れた。
「あれ?」
女性スタッフが眉をひそめる。
「二人、意識が戻りません」
別の職員が振り返った。
見学ルームの隅。
老夫婦だけが目を閉じたまま椅子へ座っている。
「同期遅延か……?」
職員は端末を確認した。
その表情が僅かに曇る。
職員たちの間に、わずかな緊張が走った。 *
エミリアの指がさらに速くなる。
《記憶補正プロトコル開始》
《帰還同期修正》
《見学セッション再接続》
*
老夫婦の身体が小さく震える。
「ん……?」
老人がゆっくりと目を開けた。
続いて妻も意識を取り戻す。
職員たちが安堵したように近寄った。
「大丈夫ですか?」
老人はぼんやりと周囲を見回した。
そして頭を掻く。
「いやぁ……」
「わし、途中でトイレへ行きたくなってしまってな」
妻が困ったように笑った。
「そうそう」
「“現実へ戻ってからにしたら?”って言ったのに、この人ったら聞かないんですよ」
職員たちから笑いが漏れる。
「あはは」
「よくあるんですよ」
「仮想世界だと分かっていても、身体感覚が引っ張られるんです」
「ご迷惑をお掛けしました」
「いえいえ。問題ありません」
どうやら記憶補正は完全に成功したらしい。
誰一人として疑っていなかった。
職員がヘッドセットを回収する。
待機エリアの自動ドアが開いた。
見学を終えたツアー客たちが外へ出る。
それと入れ替わるように、次の見学団体が中へ入ってくる。
若いカップル。
学生グループ。
家族連れ。
まるで人気テーマパークのアトラクションのようだ。
「本当に現実みたいだったな」
「想像以上だった」
「刑務所なんて初めて見たよ」
見学を終えた客たちが、興奮した様子で感想を語り合っている。
老夫婦は、これから見学する次のツアー客たちとすれ違った。
「面白かったですぞ」
老人は楽しそうに笑った。
「本当に刑務所の中へ入ったみたいでした」
妻も頷く。
「娯楽ホールまで見せてもらいましたしね」
「まるで本物でした」
それを聞いていた学生の一人が、思わず身を乗り出す。
「そんなにリアルなんですか?」
「ええ」
老人はさらに笑みを深くした。
「ただ一つだけ忠告するなら――」
そう言って、自分の腰を軽く叩く。
「帰還デバイスだけは無くさんように」
周囲から笑いが起きた。
「そんなに大事なんです?」
「命綱みたいなもんですからな」
再び笑い声。
誰もが楽しげだった。
その光景をモニター越しに見つめながら、ジェイクは小さく呟く。
「……笑えねぇよ」
*
エミリアは休む間もなく次の作業へ移る。
新しいウインドウが開いた。
《収監者行動ログ修正》
《疑似人格ルーチン起動》
《監視欺瞞プロトコル開始》
ジェイクは表示を見つめた。
「今度は何だ」
「本命」
エミリアは短く答える。
「AIはもう私たちの消失を検知している」
「だから別の答えを与える」
「別の答え?」
「まだ収監中だと思わせるの」
ジェイクは眉をひそめた。
意味が分からない。
だがモニターを見た瞬間、その意味を理解した。
娯楽ホール。
いつもの光景。
煙草を吸う男。
壁際へ座る女。
ジェイクとエミリアだった。
数分前までの姿。
数分前までの行動。
数分前までの存在。
「……なんだよ、これ」
モニターの中のジェイクが煙を吐く。
ゆっくり立ち上がる。
歩く。
立ち止まる。
壁を見る。
振り返る。
再び歩く。
その動きは驚くほど自然だった。
本人そのものに見える。
「行動ログから生成した疑似人格」
エミリアは説明した。
「AIが観測していたデータから再構築した」
「本人じゃない」
「でもAIには区別できない」
ジェイクは画面から目を離せなかった。
モニターの中で、自分が歩いている。
煙草を吸い。
独房へ戻り。
また歩く。
また立ち止まる。
また煙草を吸う。
完全なコピーではない。
しかし行動傾向そのものは再現されている。
癖。
習慣。
思考パターン。
全てが模倣されていた。
「気味が悪いな……」
思わず呟く。
モニターの中で、自分が歩いている。
本物ではない。
だが確かに存在している。
まるで――
自分だけが脱獄できていないかのようだった。
やがて。
《所在確認復旧》
《対象二名》
《収監者行動ログ正常》
《異常検知解除》
《追跡プロトコル停止》
ジェイクは息を呑んだ。
次々と表示が切り替わっていく。
《システム正常化》
《監視継続》
《収監者行動正常》
《システム整合性確認》
《異常判定解除》
警報音が徐々に小さくなっていく。
耳障りだったサイレンが止まった。
赤い回転灯も消える。
施設を覆っていた警戒色が後退し、白い照明が戻ってきた。
静寂。
まるで最初から何事も起きていなかったかのような静けさだった。
次の瞬間。
『ただいまの警報は誤報です』
女性音声が施設全体へ流れる。
『繰り返します』
『ただいまの警報は誤報です』
EDENは通常運転へ復帰した。
何も起きていない。
最初から異常など存在しなかった。
巨大なシステムはそう結論付けたのだ。
ジェイクは思わず苦笑した。
「……冗談だろ」
囚人が二人、刑務所から消えた。
それなのに――
システムは誤報だと言う。
人間なら騒ぎになる。
ニュースになる。
国家規模の問題になってもおかしくない。
だがEDENは違った。
莫大な情報を飲み込み、矛盾を補正し、平然と動き続ける。
まるで何も起きなかったかのように。
「信じられねぇな」
ジェイクは小さく息を吐いた。
「……逃げ切ったのか?」
エミリアは端末から目を離さなかった。
「まだよ」
その返答に、ジェイクは眉をひそめる。
「何がだ」
エミリアは監視画面を見つめたまま言った。
「AIは騙せた」
「でも、私たちのカプセルは残ってる」
ジェイクは一瞬言葉を失う。
現実世界。
この巨大施設。
二人が目覚めたカプセル。
確かにそこに存在している。
「……あ」
「定期巡回が来れば見つかる」
エミリアは淡々と続けた。
「収監中のはずの囚人のカプセルが開いている」
「そんなものを見られたら終わりよ」
ジェイクの顔から笑みが消える。
警報は止まった。
AIも騙した。
だが問題そのものが消えたわけではない。
証拠はまだ残っている。
「どれくらい時間がある」
「分からない」
エミリアは首を振った。
「10分後かもしれない」
「1時間後かもしれない」
「でも必ず誰かが確認に来る」
静かな声だった。
だからこそ重かった。
「その前に、この施設を出るしかない」
*
監視室。
複数の職員たちがモニターを見つめていた。
先ほどまで張り詰めていた空気はすでに消えている。
一人の職員が大きく息を吐いた。
「なんだよ……」
「びっくりさせるな」
別の職員も苦笑する。
「システム異常なんて珍しいからな」
「心臓に悪い」
監視室には小さな笑いが広がった。
誰も本気で心配していない。
警報は誤報。
そう結論が出たからだ。
すると奥にいた主任らしい男が肩をすくめた。
「だから言っただろ?」
缶コーヒーを片手に笑う。
「EDENは完璧なんだ」
「異常なんて起きるわけがない」
監視員たちは頷く。
誰も疑わない。
誰も確認しない。
誰も気付いていない。
その完璧なシステムから二人の囚人が消えていることに。




