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浮世英伝 ――大正ウキヨ英士伝――  作者: 本堂ポンタ


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8/12

目指せ!ウキヨ英士!!

挿絵(By みてみん)

 俺の決意を聞き届けた政信の旦那は、満足そうに頷いた。

「……いい覚悟だ。だが、ウキヨ英士への道は生半可なもんじゃねえ。てめえのその覚悟が本物かどうか、まずはその体で味わってもらう」

 政信の旦那は、近くにいた清長に声をかける。

「清長、北斎を呼んでこい。明日から、奴が写楽の指南役だ」

「……! 北斎が、ですか?」

 政信の旦那の言葉に、清長はわずかに驚きの色を見せた。

 組の主力の一人である北斎を、素性の知れぬ新人の指南役に据えるという、政信の旦那の異例の判断に戸惑いを隠せないでいた。


 ウキヨ英士になるため、地獄のような修行の日々が始まった。

 昼間は車夫としての基礎体力をつけるため、空の人力車を引いて浅草中を走り回る。

 日が暮れると、休む間もなく北斎との剣術稽古。

 場所は、浮世組の敷地の裏手にある、だだっ広い空き地だ。

 指南役である北斎は、一切の言葉を発しない。

 ただ、氷のような目で俺の動きを観察し、その構えにわずかな隙でも見つければ、容赦なく木刀を叩き込んできた。

「ぐっ……!」

 何度も地面に転がされ、体は痣だらけになる。

 体力には自信があったはずなのに、北斎の前では赤子同然だった。

 彼の動きはあまりにも洗練されており、俺が渾身の力で打ち込んでも、柳のように受け流され、逆に鋭い一撃を食らってしまう。

(……ちくしょう、なんだってんだ、こいつは!)

 悔しさが、歯をきしませる。

 未来で見た、八首の龍に挑んだ彼の姿が脳裏をよぎる。

 あの時感じた絶望的なまでの実力差を、今、この体で嫌というほど味わっていた。

 そんな俺の姿を、仲間たちは遠巻きに見ていた。

 清長は厳しいながらも、時折的確な助言をくれた。

 源内さんは「無理しすぎて体を壊すんじゃねえぞ」と心配してくれ、国芳は「おう新人、根性あるじゃねえか!」と豪快に笑い飛ばした。

 そして、応為は。

 彼女は、何も言わなかった。

 ただ、稽古で傷だらけになった俺の姿を、どこか痛ましそうな、そして少しだけ心配そうな目で見つめていることがあった。


 数週間が過ぎた。

 俺の体は少しずつだが、確実に変わり始めていた。

 無駄な肉は削ぎ落とされ、筋肉の鎧がその身を包む。

 木刀を振るう腕も、当初とは比べ物にならないほど太くなっていた。

 だが、それでも。

 北斎との差は、一向に埋まる気配がなかった。


 その日の稽古でも、俺は北斎に手も足も出ず、泥水の中に叩きつけられていた。

「……終わりだ」

 北斎が、冷たく言い放つ。

 俺は、泥だらけのまま、荒い息をついた。

(……足りねえ。全然、足りねえ!)

 この程度では、未来は変えられない。

 応為を守ることなど、できやしない。

 あの絶望的な光景を、ただもう一度繰り返すだけだ。

 焦りと、己の無力さへの怒りが、腹の底から突き上げてくる。

 龍輝は、どうすれば使えるようになるんだ。

 北斎は何も教えてはくれない。

「……なぜだ」

 絞り出すような声が、俺の口から漏れた。

「なぜ、俺に何も教えてくれねえ! あんたたちの力のこと、戦い方のこと……! このままじゃ、俺は……!」

 その時、俺の前に、静かに政信の旦那が立った。

 彼は、俺の魂の叫びを、黙って聞いていたのだ。

「……まだ、その時じゃねえからだ」

 政信の旦那は、静かに言った。

「てめえはまだ、器にすらなっちゃいねえ。龍輝というあまりにも強大な力を受け止めるための、な」

 その言葉は、残酷な真実だった。

 俺は、まだウキヨ英士の見習い候補ですらない。

 ただ、その入り口で足踏みをしているだけなのだ。

 悔しさに、目の前が滲む。

 だが、ここで諦めるわけにはいかなかった。

 俺は、泥にまみれた体をゆっくりと起こすと、政信の旦那と、そして指南役である北斎の前に、深々と、額が地面につくほどに頭を下げた。

「……頼む」

 プライドも、見栄も、すべて捨てて、ただ懇願した。

「俺にも、戦う力をくれ!」


 俺が政信の旦那と北斎に頭を下げた、その翌日のことだった。

 浮世組の前に、一台の黒塗りの自家用車が静かに滑り込んでくる。

 この時代、まだ極一部の富裕層しか持つことのできない、富の象徴。

 俺が物珍しそうに遠巻きに見つめる中、運転手が恭しく後部座席のドアを開けた。

 最初に降りてきたのは、すらりとした長身の青年。

 歳は二十代後半だろうか。

 仕立ての良い洋装に身を包み、その端正な顔立ちは、まるで西洋の彫刻のようだ。

 しかし、その瞳は感情を一切映さず、ただ静かに周囲を観察している。

 有能だが、どこか近寄りがたい雰囲気を纏った、寡黙な執事といったところか。

 続いて、その青年の手に導かれるようにして、華やかなドレス姿の令嬢が姿を現した。

 年は、応為と同じくらいだろうか。

 しかし、その佇まいは応為の持つ快活さとは対極にある。

 レースの扇子で口元を隠し、俺たち車夫を値踏みするかのような、傲慢な視線。

「これはこれは、美与様。ようこそお越しくださいました」

 その二人を出迎えたのは、組頭である政信の旦那だった。

 俺がこれまで見たこともないほど、深々と頭を下げている。

「ご苦労」

 令嬢——美与は、扇子で顔を隠したまま、尊大に頷いた。

 隣にいた国芳が耳元でこっそり教えてくれたが、彼女は浮世組のオーナー令嬢なのだそうな。

「して、政信。先日報告のあった新入りとは、どの者かしら?」

「はっ、あそこにいる写楽という男でございます」

 政信の旦那の視線に促され、美与の冷たい瞳が、俺を射抜く。

 そして、扇子の先で、くいと俺を指し示した。

「……あなた。わたくしたちを乗せて、浅草を案内なさい」

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

次回は4月29日(水)19時に更新予定です。

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