浅草浮世組
応為が化け物に襲われた夜から、数日。
日常は、何事もなかったかのように平然と回り続けている。
広重たちに叩き込まれる車夫の仕事。
疲労困憊で沈むだけの夜。
——けれど、水面下では何かが変わり始めていた。
北斎の何かを見定めようとする、突き刺さるような視線が、俺を捉えて離さない。
応為との距離は相変わらずぎこちないが、無視されることは無くなった。
ただ、彼女はまだ、俺をどう呼べばいいのかさえ分からずに、迷子のような瞳で俺を見てくる。
そんなある日の昼下がり。
人力車の左車輪に、砂を噛んだような微かな違和感を感じた俺は、整備場の奥へと向かった。
がらくたの山に埋もれるようにして、整備担当の源内さんは古びた歯車をいじり回している。
「源内さん、ちょっといいですか。左の車輪が、どうも……」
「……少し黙ってろ」
源内さんは俺を見向きもせず、汚れた手で車輪を軽く回した。
カラカラと、俺には聞き慣れた回転音が響く。
だが、源内さんは眉間に皺を寄せ、愛用の小さな金槌で、車軸の端をコン、と一度だけ叩いた。
「……お前、よく気づいたな」
ようやく顔を上げた源内さんの瞳は、煤で汚れた顔に似合わず、驚くほど透き通っていた。
「普通、この程度のガタは、車夫が音を上げるまで誰も気づきゃしねえ。……写楽、お前、いい耳を持ってるな。あるいは、敏感すぎる体か」
「いや、ただ、なんとなく足の裏に響くというか」
「『なんとなく』でこれを拾う奴を、俺の地元じゃ天才か、よっぽどの馬鹿と呼ぶんだよ」
源内さんはニヤリと笑い、俺の足元をじっと見つめた。
「道具ってのはな、使う奴の魂を映す鏡だ。……ほらよ、もう直した」
梶棒を握ると、先ほどまで感じていた不純な振動が、嘘のように消えていた。
源内さんはまた、興味を失ったように歯車の山へ戻っていく。
そんな時だった。
「おい、写楽。組頭がお呼びだ」
声をかけてきたのは、清長。
その硬い表情からは、用件をうかがい知ることはできない。
(……やっとかよ。あの夜のこと、全部話聞かせてもらうぜ)
俺は初めて組頭である政信の旦那の部屋へと足を踏み入れた。
部屋は質実剛健そのもの。
帳簿が積まれた書斎机に、壁に掛けられた帝都東京の地図。
そして、その横には、力強い筆致で「守」の一文字だけが書かれた額装の書が掛けられている。
その書が放つ静かな迫力が、部屋全体の空気を引き締めていた。
「待っていたぞ、写楽」
書斎机に向かっていた政信の旦那が、顔を上げた。
その声には、普段の仲間たちに向けるものとは違う、冷たい響きがあった。
「……何の用ですかい、組頭」
俺が尋ねると、政信の旦那は筆を置き、ゆっくりと立ち上がる。
そして、猛禽のような鋭い眼光で、俺を真正面から射抜いた。
「単刀直入に聞く。——てめえ、何者だ?」
その場の空気が、一瞬で凍った。
その問いが、いつか必ず来るとは覚悟していたが、いざ突きつけられると心臓がどくりと嫌な音を立てた。
「……何言ってんです。俺は写楽。ただのしがない車夫見習いですよ」
おどけてみせる俺を、政信の旦那の視線が許さない。
「とぼけるな。北斎との立ち合いで見せた、常人離れした身のこなし。そしてあの夜、化け物に襲われた応為を庇った、無謀な度胸。てめえがただの素人じゃねえことくらい、わからぁ」
政信の旦那が一歩、また一歩と俺に詰め寄る。
その威圧感に、俺は思わず後ずさりそうになるのを必死でこらえた。
「……あの化け物は、一体何だったんです?」
「質問に質問で返すな。先に聞いているのはこっちだ。なぜお前は、あの時、勝ち目もねえ相手に、命を懸けてまで立ち向かった?」
政信の旦那の問いが、俺の胸に突き刺さる。
未来のことなど、話せるはずがない。
話したところで、誰も信じはしないだろう。
「……ただの、偶然ってやつですよ」
「偶然、だと?」
政信の旦那の目が、すっと細められる。
「偶然で、人は守れねえ。その偶然ごときで、命は張れねえ。俺が聞きてえのは、そんな薄っぺらい言葉じゃねえ。てめえの魂の奥底にある、本当の答えだ」
逃げ場はない。
この男には、誤魔化したところで通用しないだろう。
俺は、一度固く目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、炎に焼かれる帝都の街並み。
そして、血に濡れて倒れる、応為の姿。
そうだ。俺は、そのためにここに来た。
ごまかして、やり過ごしている場合じゃない。
ゆっくりと目を開けた俺の瞳には、もうおどけた光はなかった。
そこにあるのは、未来を変えるという、揺るぎない決意の炎。
「……守りてえ奴がいる」
絞り出した声。自分でも驚くほど、静かで、そして低い。
「そいつが笑って生きている未来を、この手で掴む。そのためなら、俺はなんだってやる。……この命に代えても、必ず」
政信の旦那は、何も言わない。
ただ、その猛禽のような目で、じっと俺の瞳の奥を見据えていた。
沈黙が、部屋を支配する。
やがて、政信の旦那はふっと張り詰めていた空気を緩めると、踵を返して書斎机の方へと戻った。
「……そうか」
その呟きは、俺の覚悟を測り終えたのか、静かな納得を含んでいた。
「その覚悟が本物だというなら……知る権利くらいはあるだろう」
俺の瞳は、政信の旦那を捉えたまま離さない。
「てめえが先日遭遇した、あの化け物。ありゃあ、一体なんだと思う?」
「……さあ。ただの人殺しってわけじゃ、なさそうだったけど」
「奴らは、『惡魂』。この帝都の安寧を脅かすものだ」
政信の旦那は、静かに語り始める。
その声は、これまで俺が聞いてきたどの言葉よりも重かった。
「この帝都の繁栄は、ただの偶然じゃねえ。この大地の下には、『龍脈』と呼ばれる巨大な力の河が流れている。その力が溢れ出る場所は『龍穴』と呼ばれ、通常では見ることのできない神秘の力『龍輝』が噴出しておる。帝都の近代化も、人々の営みも、すべてはこの龍輝の恩恵によって成り立っている」
龍脈、龍輝、龍穴。
初めて聞く言葉ばかりだった。
「だが、光あるところには、必ず影が生まれる」
政信の旦那の声色が、一段低くなった。
「龍輝の力に惹かれ、その力を悪用しようとする者たちがいる。人の欲望、憎悪、嫉妬……そういった負の感情が龍輝と交わるとき、人の魂は歪み、異形の化け物へと成り果てる。——それが、惡魂の正体だ」
惡魂。
人の理性を失い、ただ破壊と殺戮を繰り返す化け物。
ドンッ!
政信の旦那は、部屋の壁に掛けられた帝都東京の地図を叩く。
その地図には、江戸城、そしてここ浅草の二箇所に、朱色で大きな丸が印されていた。
「『浅草 浮世組』は、表向きは人力車屋を営みながら、ここ浅草にある『浅草龍穴』を守護し、龍輝の力をその身に纏って惡魂と戦う」
旦那は、そこで初めて俺の方へと振り返った。
その瞳には、組頭として、そして一人の戦士としての、覚悟の光が宿っていた。
「俺たちは、『ウキヨ英士』。帝都の平和と、人々の笑顔を守るため、この浮世の闇を斬り払う帝都の防人」
ウキヨ英士。
すべてが、今ここで繋がった。
北斎が、清長が、そして目の前の政信の旦那が放っていた、あの常人離れした力の正体。
あの夜、北斎たちがその身に纏っていた神秘の光の正体が、『龍輝』なのだということ。
彼らは、ただの人力車屋などではなかったのだ。
帝都の平和という、あまりにも重い宿命を背負って戦う、孤高の戦士たち。
「……」
俺は、何も言えなかった。
自分が巻き込まれようとしている戦いの、その途方もない大きさに、ただ圧倒されるばかりだった。
政信の旦那は、そんな俺の様子を見透かすように、静かに続けた。
「てめえが守りてえと願った『そいつ』も、この帝都に生きる人間の一人だ。惡魂の脅威と無関係ではいられねえ。それを、肝に銘じておけ」
その言葉は、俺の覚悟を試す最後の問いだった。
未来を変えるということは、この壮絶な戦いに、その身を投じるということなのだと。
(……できるのか、俺に?)
恐怖で、足が震えそうになる。
俺は未来を知っているだけの、ただの男だ。
北斎や清長のように、人知を超えた力で戦うことなど、本当にできるというのか。
ふと、視線が部屋の壁に掛けられた額装の書へと向かった。
そこには、力強い筆致で「守」の一文字だけが書かれている。
あれが、彼らの覚悟の象徴。俺にはまだ、ないものだ。
漆黒の墨を見つめる。
その艶やかな黒の中に映るのは、情けない自分の顔じゃない。
未来で帝都を焼いた、あの地獄の炎だ。
その文字に、炎の中で消えていった、応為の最後の笑顔が重なる。
「——っ!」
そうだ。
何のために、俺はここにいる。
この恐怖から逃げ出したとして、その先に待っているのは、彼女を失うという耐え難い絶望だ。
もう二度と、あんな思いはしたくない。
恐怖が消えたわけじゃない。
だが、あの未来を繰り返させないという決意が、恐怖を覆う。
「……俺も、なりてえ」
震える声で、だが、はっきりと俺は言った。
「あんたたちと同じ、ウキヨ英士に」
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回は4月26日(日)19時に更新予定です。




