冷たい雨に打たれて
豪雨の音すらも掻き消すような、重く、息苦しい沈黙が広場を支配した。
闇の奥から歩み出てきたその男は、漆黒の装束に、血のように赤黒いマントを羽織っていた。
その顔はのっぺりとした不気味な能面で隠されており、どんな容姿なのか、歳はいくつくらいなのか、全く窺い知ることはできない。
だが、男がゆっくりと歩みを進めるたび、背中で波打つマントに、禍々しくも力強い『金色の龍輝』が文様となって浮かび上がっていた。
菊と桜の花々を組み合わせた優美な模様。
だが、それはどこかおぞましく歪んでおり、見る者の魂に底知れぬ恐怖と、絶対的な覇王としての威厳を刻み込んでくる。
男が姿を現した瞬間、俺の隣にいた政信の旦那や清信さん、そして豊春さんたちの空気が、一瞬にして凍りついた。
誰も言葉を発しない。
いや、発することすらできないのだ。
歴戦のウキヨ英士である彼らが、まるでかつての拭い去れない悪夢と再び対峙したかのように、顔面を蒼白にして極限の緊張状態に陥っている。
その存在感は、周囲の空間を歪ませるほどに異質で、強大だった。
(……こいつが、大倭衆の……!?)
滝夜叉姫や石燕といった、あの化け物のような幹部たちですら、男が歩みを進めるたびに、まるで重力に逆らえないかのように恭しく頭を垂れる。
男は、広場の中央で立ち止まった。
その瞬間。
天を貫いていた青い光柱が、シュウゥゥ……と音を立てて収束していった。
光の中心にいた芳年の虚ろな瞳が、男の姿を捉える。
芳年は機械じみた正確な動作で、胸の前に浮かんでいた『青い宝石』——青の勾玉をスッと右手で掴み取った。
そして、音もなく男の御前へと進み出ると、深い泥の水たまりに膝をつくことも厭わず、静かに傅いたのだ。
「芳年……ッ!! やめろ、芳年ェェェッ!!」
国芳が、喉から血が出るほどの絶叫を上げた。
だが、芳年は師匠である国芳の悲痛な声に微塵も反応することなく、両手で捧げ持つようにして、青の勾玉を男へと差し出した。
男は、無言のまま、ゆっくりとその勾玉を受け取った。
「新皇様」
続いて、滝夜叉姫が妖艶な笑みを浮かべながら進み出た。
彼女はその白魚のような手を懐に差し入れると、そこから、周囲の光をすべて吸い込むような、漆黒の闇を凝縮した石を取り出した。
赤坂の龍穴で奪われた遺物。
『黒の勾玉』だ。
「帝都の心臓を食い破るためのもう一つの牙……ここに」
滝夜叉姫もまた、芳年と並んで泥の上に膝をつき、恭しく黒の勾玉を差し出す。
男はそれも、反対の手に静かに受け取った。
右手には、嵐のように荒れ狂う龍輝を放つ『青の勾玉』。
左手には、底知れぬ闇のように光を飲み込む『黒の勾玉』。
「……動け。動けよ、俺の足……ッ!」
俺は、奥歯が砕けそうになるほど強く噛み締めながら、必死に自分の足に命令を送った。
目の前で、最悪の事態が起きようとしている。
今すぐあの男に斬りかかり、芳年を取り返し、二つの勾玉を奪い返さなければならない。
だが、極印を通じてビンビンと伝わってくる、あの男の放つ常軌を逸したプレッシャーが、俺の本能に『一歩でも動けば死ぬ』と強烈な警鐘を鳴らし続け、体を一寸たりとも動かさせてくれないのだ。
あの政信の旦那でさえ、額に冷や汗を浮かべ、龍輝筆刃を握る手を白くしたまま、金縛りに遭ったように身動き一つ取れずにいる。
ピシャァァァンッ!!
夜空を切り裂くような激しい落雷が、広場を白日のように照らし出した。
その光の中。
大倭衆の新皇は、一切の言葉を発することなく、両手に持った二つの勾玉を、誇示するようにゆっくりと、夜空へ向かって高く掲げたのだった。
男が夜空へ掲げた右手と左手。
荒れ狂う嵐を封じ込めたような『青の光』と、あらゆる希望を吸い尽くすような『黒の闇』。
二つの勾玉から放たれる相反する波動が、上空で禍々しく交じり合い、人工島を覆う分厚い雨雲を不気味な紫色に染め上げていく。
言葉など、必要なかった。
その無言の誇示は、俺たちの希望を完膚なきまでに叩き潰す、あまりにも残酷な『死の宣告』だった。
「……ッ、返せ! 芳年を、返せェェェェッ!!」
国芳が、極印を通じて魂を押さえつけるような男の威圧感を強引に引き剥がし、血を吐くような絶叫と共に地を蹴った。
黄色い光刃を振りかぶり、一直線に芳年の元へ突っ込もうとする。
だが、それよりも早く。
男の足元から、ドロドロとした底なしの沼のような漆黒の闇が湧き上がり、大倭衆の幹部たちの体を包み込み始めた。
「ふふっ。無駄吠えはよしなさいな、帝都の番犬ども」
足元まで闇に沈みながら、滝夜叉姫が妖艶な笑みを浮かべて言い放つ。
「せいぜい今のうちに、束の間の平和を噛み締めておくことね」
「待てッ!! 芳年!!」
国芳の黄色い光刃が、闇を切り裂く。
だが、刃が捉えたのは、虚空を斬る音だけだった。
その瞬間。
ポツリと、青い光柱によって蒸発させられていた冷たい雨粒が、再びコンクリートの広場を打ち据え始めた。
無表情のままの芳年も。
妖艶に笑う滝夜叉姫も。
冷酷に俺たちを見下ろしていた石燕ら幹部たちの姿も。
そして、二つの勾玉を掲げた底知れぬ男の姿も。
大倭衆は、俺たちと剣を交えることすらなく、その圧倒的な存在感と絶望だけをこの場に置き去りにして、完全に闇の中へと消え去ってしまったのだ。
ザァァァァァァッ……!!
再び激しさを増した豪雨の中、国芳は誰もいなくなったコンクリートの広場に膝をつき、天に向かって獣のような悲痛な咆哮を上げた。
豊春さんも豊国さんも、かける言葉を見つけられず、ただ悔しそうに強く拳を握りしめている。
俺は、足の震えを必死に抑え込みながら、龍輝筆刃を地面に突き立ててなんとか立っていた。
あの男の姿が消えてもなお、背筋に張り付いた氷のような悪寒は消えない。
「……チッ。最悪だな」
政信の旦那が、雨に打たれながら忌々しそうに煙管を握りしめて吐き捨てた。
「赤坂の遺物である黒の勾玉に加え、まさか、武神の力を持つ青の勾玉までも奴らの手に……」
「……ああ。これで奴らの手札には、強大な力を持つ神の遺物が二つ。……この帝都を火の海にするには、十分すぎる絶望だ」
清信さんが、かつてなく険しい表情で、暗雲が渦巻く夜空を睨みつけた。
銀座のカフェーで漂っていた、あの甘い珈琲の香り。
劇場で目を輝かせていた応為の横顔と、五月さんの温かく穏やかな微笑み。
俺たちが守りたかったささやかな日常の記憶は、今、途方もなく巨大で理不尽な悪意の濁流によって、跡形もなく飲み込まれようとしていた。
ピシャァァァンッ!!
再び激しい落雷が、暗黒の夜空を切り裂く。
冷たい豪雨が打ち付ける人工島の広場には、来るべき大動乱と、帝都崩壊の危機を悟ったウキヨ英士たちの、重く、苦しい沈黙だけが残されていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回は10月14日(水)19時に更新予定です。




