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浮世英伝 ―大正ウキヨ英士伝―  作者: 本堂ポンタ
第十五章 新龍穴

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木陰と日傘

挿絵(By みてみん)

 七月の太陽が、ジリジリと容赦なく帝都のアスファルトを焦がしている。

 昼下がりの隅田公園。

 木陰のベンチに腰を下ろした応為は、首に巻いた手拭いで汗を拭いながら、深々とため息をついた。

 足元には、相棒である人力車が静かに停まっている。

(……はぁ。最近、ため息ばっかりだな)

 応為は、車引きの仕事で日焼けした自分の手のひらを、じっと見つめた。

 江戸城での『初摺の儀』から数週間。

 写楽を相手にした地下での修練の成果もあり、応為はウキヨ英士としての力を着実に身につけつつあった。

 車引きで鍛えた足腰と、持ち前の無尽蔵のスタミナ。

 それに『極印』の力が加わり、身体能力だけなら写楽や北斎にも引けを取らない自信がある。

 だが、応為の心には、新たな焦りと不安が黒い雲のように居座っていた。

(……いざ本番になったら、あたし、本当に動けるのかな)

 木刀を使った修練と、殺し合いの実戦は違う。

 赤坂の旧龍穴で直面した、大倭衆という本物の化け物たちが放つ、あの息の詰まるような絶望的な殺気。

 それを前にした時、恐怖で足がすくんでしまうのではないか。

 もし自分が動けなくなったせいで、兄貴や写楽、仲間たちが傷つくことになったら……。

「……ウキヨ英士になったからって、いきなり度胸がつくわけじゃないんだよね」

 膝を抱え、小さく呟いたその時だった。

「お疲れ様ですわ、応為さん」

 ふわりと、涼やかな風が吹き抜けたような気がした。

 顔を上げると、そこには日傘を差した五月が、穏やかな微笑みを浮かべて立っていた。

「あ、五月さん! どうしたの、こんな暑い日に」

「ええ、少しお買い物に。……偶然ですね」

 五月は日傘を閉じると、「お隣、よろしいですか?」と断ってから、応為の隣にそっと腰を下ろした。

 爽やかな石鹸の香りが微かに漂う。

「応為さん、少しお疲れのようですね。お顔の色が、いつもより優れないようですけれど……」

「えっ、そう? いやぁ、ただの暑さのせいだよ!」

 応為は慌てて笑顔を作り、両手でパタパタと顔を仰いでみせたが、五月の静かで思慮深い瞳は、応為の心の揺らぎを正確に捉えているようだった。

「……私でよければ、お話、聞きますわよ」

「五月さん……」

 五月の底抜けに優しく、包み込むような声音。

 その温かさに触れた瞬間、応為の胸の奥で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。

 応為はぽつりぽつりと、自分が抱えている実戦への恐怖と、足手まといになることへの不安を吐露し始めていた。


「……情けないよね。やっと皆と一緒に戦える力をもらったのに、いざ本物の化け物を前にして足がすくんだらどうしようって考えちゃったりさ」

 応為は自嘲気味に笑い、うつむいた。

 黙って話を聞いていた五月は、応為の背中にそっと、自身の白く滑らかな手を添えた。

「そんなことありませんわ」

「……え?」

「応為さんが感じていらっしゃるその恐怖は、ご自身が傷つくことへの恐れではありませんよね? 大切な人たちを、守り損ねてしまったらどうしようという不安……。それは、応為さんの深い優しさの裏返しです」

「優しさの、裏返し……」

 五月は静かに頷き、どこか遠くを見るように目を細めた。

「ええ。大切な人を想うからこそ、自分の無力さに足がすくんでしまう……。そのお気持ち、私にも痛いほど分かりますわ」

「五月さん……」

「ですが、応為さんは決して一人ではありません」

「……」

「応為さんの隣には、背中を預けられる強くて優しいお仲間が、たくさんいらっしゃるではありませんか。……恐怖を、たった一人で背負い込む必要はないのですよ。皆さまを信じて頼ることが、恐怖を打ち払う一番の近道ですわ」

「……仲間」

 応為の脳裏に、不器用だがいつも自分を守ろうとしてくれる北斎、共に修練に汗を流す写楽、そして浮世組の皆の顔が次々と浮かんだ。

「いざという時は、応為さんのその優しい愛情と、お仲間への深い信頼が……必ず、恐怖を打ち払ってくれます。私は、そう信じています」

 五月の言葉は、熱を持った雫のように、応為の心の奥底にじわりと染み込んでいった。

 張り詰めていた恐怖が、ふっと軽く、温かいものに変わっていくのを感じる。

「……ありがとう、五月さん」

 応為は顔を上げ、憑き物が落ちたような、すっきりとした笑顔を見せた。

「なんだか、すごく楽になった。そうだよね、あたしには皆がいる。一人で空回りしてちゃダメだよね!」

「ふふっ。ええ、その笑顔ですわ。やっぱり応為さんには、明るいお顔が一番似合います」

 五月も自分のことのように嬉しそうに目を細め、優しく微笑み返した。

 そして、何かを思いついたように小さく手を合わせる。

「そういえば、お兄様の北斎さんがお怪我から復帰されたと伺いました。どうでしょう応為さん。今度の休日、皆さまで快気祝いのお出かけなどされては?」

「お出かけ? いいね、それ! 兄貴もずっと引きこもってて息が詰まってただろうし。……あ、そうだ! だったら五月さんも一緒に行こうよ!」

「えっ、私までよろしいのですか?」

 目を丸くする五月に、応為は力強く頷いた。

「当たり前じゃん! 五月さんにはいつも話聞いてもらってばっかりだし、お礼もしたかったんだ! 写楽も誘って、四人でパーッと銀座にでも繰り出そう!」

「銀座……! まあ、ふふっ。ええ、とても楽しみですわ」

 五月は嬉しそうに頬に手を当て、可憐に微笑んだ。

 その底抜けに優しく、気立ての良い姿に、応為は同性でありながら、心を完全に奪われていた。

(本当に、素敵な人だなあ。五月さんみたいに優しくて強い女の人に、あたしもなりたい)

 初夏の澄み切った青空の下。

 二人の間には、温かく穏やかな友情の時間が流れていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

次回は10月9日(金)19時に更新予定です。

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