兄の幻影
あの激闘の夜から、数日が過ぎた。
「ガチガチに緊張してんなぁ、応為」
江戸城へと向かう黒塗りの自動車の中で、向かいの席に座る政信の旦那が、呆れたように煙管をふかして笑った。
その隣では、写楽が
「まあ、無理もないっスよ」
と苦笑いしている。
「しょ、しょうがないじゃないですか! あたし、江戸城の中に入るのなんて初めてなんですから!」
あたしは膝の上で固く握りしめた両手を隠すように、少し声を荒げた。
今日、あたしはウキヨ英士となるための最終関門、『初摺の儀』を受けるために江戸城へ登城する。
大倭衆の襲撃で一時はどうなることかと思ったけれど、写楽たちの活躍で江戸城龍穴は守り抜かれ、儀式は予定通り行われることになったのだ。
「大丈夫だ、応為。俺だってなんとかなったからな」
「写楽……」
「それに、あの北斎の致命傷を塞いだんだ。応為なら、絶対に試練を乗り越えられるさ」
写楽の真っ直ぐな励ましに、あたしの胸の奥で、カチコチに固まっていた緊張が少しだけほぐれるのを感じた。
やがて自動車は江戸城の巨大な大手門を音もなく滑り抜け、奥へ奥へと進んでいく。
近衛兵たちの厳重な警備を抜け、まず案内されたのは、目も眩むような金襖に囲まれた広大な『謁見の間』だった。
そこで待っていたのは、この国の頂点に立つ将軍・輝吉様と、神聖な装束に身を包んだ龍脈の巫女・美与様。
あたしは床に額をこすりつけんばかりに平伏し、息をするのも忘れるほど緊張していた。
「面を上げよ、応為」
輝吉様の低く威厳に満ちた声に、恐る恐る顔を上げる。
「そなたの右手に宿りし力、そしてその覚悟、しかと聞き及んでおる。……龍穴の試練、乗り越えられるか?」
「……はいッ!」
あたしは、震えそうになる声を必死に腹の底から絞り出し、真っ直ぐに輝吉様たちを見つめ返した。
あたしの決意に、輝吉様と美与様は静かに頷き合った。
そして二人に導かれるまま、城のさらに奥深くへと進み、たどり着いたのは古びた木造の社だった。
ここが、兄貴たちが守った『江戸城龍穴』の入り口。
「……ここから先は、お前一人だ」
社の奥、地下へと続く重厚な扉の前で、政信の旦那がいつもの飄々とした顔を引き締め、真っ直ぐにあたしを見た。
「龍穴の最奥は、この国の深層心理そのもの。お前自身の迷いや恐怖が『幻影』となって立ち塞がるかもしれねぇ。……自分の心を、しっかり見据えてこい」
「……はい」
あたしは大きく深呼吸をすると、政信の旦那と写楽、そして輝吉様たちに見送られ、一人、薄暗い地下道へと足を踏み入れた。
コツン、コツンと、自分の足音だけが静寂に響く。
長く険しい階段を下っていくと、やがて視界が開け、広大な地下空間へと出た。
「……すごい」
思わず感嘆の声が漏れる。
大倭衆の瘴気など微塵も残っていない。
そこは、淡く清らかな光――『龍輝』で満たされた、息を呑むほど神聖で美しい場所だった。
だが、最奥へと歩みを進めた、その時だった。
――ヒュッ。
目の前の空間が陽炎のように歪み、あれだけ清らかだった光が、突如としてどす黒い赤へと変色した。
「え……?」
足元が泥のように重くなる。
そして、歪んだ空間の中から、ふらふらと歩み出てきたのは――
「……兄貴!?」
血まみれになり、息も絶え絶えの兄・北斎の姿だった。
あの夜、事務所に運び込まれてきた時の、死に直面した痛ましい姿そのままに。
『……だから言っただろう。女のお前には、無理だ』
幻影の兄貴が、冷たく、絶望に満ちた声で囁く。
『大人しく俺の背中に隠れていれば、こんなことにはならなかった……。お前がしゃしゃり出たせいで……俺は……』
バタリと、幻影の兄貴が、あたしの目の前で力なく倒れ伏す。
心臓が鷲掴みにされたように冷たくなり、足がガクガクと震え出す。
(やだ……あたしのせいで、兄貴が……?)
大好きな家族を失う恐怖。自分自身への無力感。
あたしの心の奥底にずっとへばりついていた暗い感情が、幻影となってあたしの心をへし折りにきているのだ。
(……でも)
あたしは、奥歯をギリッと噛み締め、震える両足をバンッと強く叩いた。
「……違う!」
あたしは、倒れ伏す兄貴の幻影を真っ直ぐに睨みつけた。
「兄貴は、そんなこと言わない! あの不器用な兄貴は、いつだって言葉足らずで、あたしを守るために一人で傷を背負おうとするバカなんだから!」
右手の甲を、強く、強く握りしめる。
そこには、あの夜目覚めた『極印』の確かな熱がある。
「あたしはもう、兄貴の背中に隠れてるだけの妹じゃない。女だからって、守られてるだけの存在じゃない!」
あたしは、腹の底から声を張り上げた。
「あたしが、兄貴を……仲間を、守り抜くんだッ!!」
あたしの叫びに応えるように、右手の極印から強烈な光が弾けた。
その光が空間を照らした瞬間、倒れていた兄貴の幻影は、ガラスが砕けるような音と共に光の粒子となって霧散し、辺りは再び清らかな龍輝の空間へと戻った。
「……ふぅっ」
大きく息を吐き出し、あたしは再び前を向く。
迷いは、もうない。
辿り着いた龍穴の最奥。清らかな光が溢れ出るその場所に、美しい結晶――『龍輝晶』があたしの到着を待っていた。
あたしは迷いなく手を伸ばし、未来を切り開くためのその結晶を、両手でしっかりと掴み取った。
無事に龍輝晶を手にし、薄暗い地下道から龍穴の入り口へと戻ると、そこには政信の旦那や写楽、輝吉様と美与様、そして——
「……兄貴!」
あたしは思わず声を上げた。
そこに立っていたのは、胸に分厚い晒を巻き、まだ顔色も青白いものの、しっかりと自分の足で立つ兄・北斎の姿だった。
「無理して起きてきちゃダメじゃない! まだ傷は完全に塞がったわけじゃ……」
「……馬鹿野郎」
駆け寄ろうとするあたしを、兄貴は静かな、だが確かな力強さを持った声で制した。
「妹が覚悟を決めた日だ。……這ってでも見届けるのが、兄の役目だろうが」
「……っ」
兄貴の言葉に、あたしは鼻の奥がツンと痛くなるのを必死でこらえ、深く、深く頷いた。
その後、あたしたちは謁見の間とは別の、神聖な『祭壇の間』へと移動した。
純白の千早と緋色の袴に着替えた美与様が、白木の祭壇の前に静かに座している。
「これより、ウキヨ英士を成すための『初摺の儀』を執り行う」
輝吉様の厳かな宣言。
あたしは促されるままに祭壇の前へと進み、膝をついて、持ち帰った龍輝晶を美与様へと差し出した。
美与様はそれを受け取ると、あたしの右手を取り、その甲の上にそっと置いた。
「——龍脈の源流に坐す、大いなる御霊よ。今ここに、帝都を守る新たな剣の誕生を寿ぎ、御霊の御力を乞い願う……」
美与様の凛とした祝詞が響き渡る。
その声に呼応するように、龍輝晶がまばゆい光を放ち始めた。
(……温かい)
龍脈の巨大なエネルギーが、龍輝晶を介してあたしの体内へと流れ込んでくる。
あの夜、兄貴を死の淵から引き戻したい一心で無理やり引き出した未知の力。
それが今、この儀式を通して、あたしの魂の奥底にしっかりと根を下ろし、馴染んでいくのが分かった。
「——極印、ここに顕現せり!」
美与様の宣言と共に光が収束する。
あたしの右手の甲には、あの夜と同じ、けれどよりくっきりと鮮明なウキヨ英士の証——『極印』が、淡い熱を帯びて刻まれていた。
儀式を終え、再び謁見の間へと戻る。
「——応為」
輝吉様の威厳に満ちた声が広間に響いた。
「そなたは試練を乗り越え、巫女の祝福を受け、極印を得た。よってこれより、そなたに帝都を守る剣、『ウキヨ英士』の職を与える!」
あたしが深々と頭を下げると、広間の襖が静かに開かれた。
そこに現れたのは、浮世組での人力車の整備でお世話になっている源内さんだった。
源内さんは輝吉様の前で片膝をつき、手に持っていた白木の箱を恭しく開いた。
中に納められていたのは、他のウキヨ英士たちが持っているものと全く同じ形状の、黒檀のように黒く、精緻な銀細工が施された刀の『持ち手』だった。
輝吉様がそれを手に取り、あたしの前へと差し出す。
「受け取れ。これが、そなたの魂——『龍輝筆刃』だ」
あたしは震える両手で、その持ち手を受け取った。
ひんやりとした金属の感触。
でも、右手の甲の極印が反応し、持ち手の奥でドクンと熱い脈動が走ったのがわかった。
「早く使いこなせよ、応為」
下座に控えていた源内さんが、にかっと人の悪い笑みを浮かべて言う。
(……あたしだけの、龍輝筆刃)
あたしは龍輝筆刃の柄を胸に抱きしめ、下座に控える兄貴の方を見た。
兄貴は、何も言わなかった。
ただ、かつての「女には無理だ」という冷たい視線ではなく、一人の戦士としてあたしを認める、静かで力強い眼差しで見つめ返してくれていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回は10月2日(金)19時に更新予定です。




