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浮世英伝 ―大正ウキヨ英士伝―  作者: 本堂ポンタ
第十三章 江戸城龍穴(後編)

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灯りし決意

挿絵(By みてみん)

 東の空が白み始め、夜明けの空気が帝都を包み込もうとしていた頃。

 浅草浮世組の事務所は、重苦しい静寂と焦燥感に支配されていた。

 清信は腕を組んで目を閉じ、政信はいつもより早いペースで煙管を吹かしている。

 そして応為は、ただひたすらに祈るような思いで引き戸を見つめていた。

(お願い……みんな、無事で帰ってきて……)

 その時だった。

 外から、泥を引きずるような重く切羽詰まった足音が近づいてくる。

 バンッ!!

「清信さん! 頼む、北斎を……!」

 勢いよく開け放たれた引き戸の向こう。そこに立っていたのは、萌葱色の陣羽織を煤と埃で汚し、激しい戦いの疲労を色濃く滲ませた写楽だった。

 そして、その写楽の背中には——ベロ藍の陣羽織をどす黒い血で染め上げ、完全に意識を失っている北斎が力なく背負われていた。

「……兄貴ッ!?」

 応為の心臓が鷲掴みにされたように冷たくなり、頭の中が真っ白になる。

「こっちへ寝かせろ! 急げ!」

 清信が即座に立ち上がり、小上がりの畳の上を指差す。

 写楽が慎重に北斎の体を下ろすと、政信は無惨に裂けた戦闘服から覗く傷口を確認した。

「……ひどい傷だ」

 普段は飄々としている政信の顔が、険しく歪む。

 北斎の肩口から胸郭にかけて、凄惨な刃傷が走っていた。

 現場で写楽が塗った軟膏のおかげで大量出血を免れているが、受けたダメージは計り知れない。

 北斎の顔面は死を待つかのように蒼白だった。

「兄貴……嘘でしょ、兄貴……ッ!」

 応為は震える足で北斎の傍らに歩み寄り、その場にへたり込んでしまった。

 いつも自信に満ちていて、どんな時もあたしの前を歩いて、あたしを守ってくれていた、あの大きくて強い兄の背中。

 それが今、虫の息となって目の前に横たわっている。

「しっかりしろ北斎! お前がこんなところで死んでいいはずがないだろう!」

 写楽が、固く拳を握りしめながら必死に叫ぶ。

 清信が北斎の脈を確認するが、その表情は暗い。

「……脈がひどく弱い。傷の深さによるショック状態だろう。これではとても……」

 冷静な清信の口から、絶望的な言葉が漏れた。

 北斎は意識を混濁させ、浅く苦しげな呼吸を繰り返している。

(……やだ。やだやだやだッ!)

 応為の瞳から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。

 江戸城へ向かう彼らを見送った時、自分の無力さをこれでもかと呪った。

 でも、一番恐れていたのは、自分の無力さなんかじゃない。

 大好きな、たった一人の家族である不器用な兄を、永遠に失ってしまうことだった。

「兄貴……! しっかりしてよ、兄貴ッ!!」

 応為は、とめどなく溢れる涙を拭おうともせず、北斎の深い傷口に覆い被さるようにして、自分の両手を力強く押し当てた。

(お願い……死なないで……! あたしの命を半分あげてもいいから……だから、お願いッ!!)

 今にも消え入りそうな命の鼓動を手のひらに感じながら、応為は魂の底から絶叫した。

 その時、北斎の胸に押し当てていた応為の右手が、眩しく光りだした。


 応為の光る右手の甲に浮かび上がったのは極印だった。

 浮かび上がった極印からは、淡く、それでいて温かい桜色の光が溢れ出す。

「……ほう。これは……」

 政信が目を細め、予想外のものを見たように口の端を微かに上げる。

 清信もまた、その光景に静かに息を呑んだ。

 桜色の光は、まるで意思を持つかのように北斎の深くえぐられた傷口を包み込んでいく。

 その光が触れた端から、千切れていた筋繊維が繋がり、傷が縫い合わされるようにして、みるみるうちに塞がっていくのだ。

「……嘘だろ。傷が、治っていく……?」

 写楽が呆然と呟く。

 ウキヨ英士が扱う龍輝は、基本的に身体能力の強化や武器の形成など、戦闘に特化した力だ。

 だが、応為の極印から放たれるこの光は、治癒の力を持っていた。

(……温かい。兄貴の命が、戻ってくる……!)

 応為は、とめどなく流れる涙もそのままに、全神経を右手に集中させた。

 ただただ、無我夢中だった。

「死なないで」

 という強い願いだけが、この未知の力を引き出していたのだろう。

 やがて、桜色の光がすうっと薄れ、極印の熱が引いていく。

 光が完全に消え去った後には、北斎の胸郭にあったはずの凄惨な刃傷は、うっすらとした痕を残すのみで、完全に塞がっていた。

「……う、ん……」

 死人のように蒼白だった北斎の顔に微かな血の気が戻り、浅かった呼吸が、深く、落ち着いたものへと変化する。

「兄貴……! 兄貴ッ!!」

 応為は、北斎の胸に顔を埋め、今度は安堵の大粒の涙をポロポロとこぼして泣きじゃくった。

「……見事なもんだ。素質があるのは勘付いちゃいたが……まさか、あの致命傷を塞いじまうとはな」

 政信が、感心したように大きく息を吐き出し、ぽりぽりと頭を掻く。

 清信は、泣きじゃくる応為の背中越しに、彼女の右手に刻まれた極印を、静かに見つめていた。

(……温かい。兄貴の命が、ここにある)

 安堵に包まれながらも、応為の胸の奥底では、燻っていた感情が炎を上げて燃え上がり始めていた。


 ふと、応為の脳裏に、かつての記憶が蘇る。

 兄と同じ浅草浮世組で働きたいと申し出たあの日。

 北斎は冷たい視線を向け、一言で切り捨てた。

『……女のお前には無理だ』

 その言葉が、どれだけ応為の心に火をつけたか。

 ウキヨ英士という危険な世界から妹を遠ざけたいという、兄貴なりの不器用な愛情だったと、今ならわかる。

 けれど、あの時の応為は、「女だから」という理由だけで頭ごなしに決めつけられたことが我慢ならなかった。

『だったら、意地でもなってやるよ!』

 猛反発し、半ば強引に浮世組の門を叩いた。

 一歩も引かない妹の覚悟を見た北斎は、「目の届く場所に置いておくのが一番安全だ」と折れ、車夫として働くことを渋々認めたのだ。


 ずっと、兄貴の背中という一番安全な場所で守られてきた。

(……でも、もう嫌だ)

 ただ無事を祈って、待っているだけの妹でいるのは、もう終わりにしたい。

 大好きな家族を、仲間を、失う恐怖に怯え続けるのはごめんだ。

(女のお前には無理だ、って言った兄貴に……あたしだって一緒に戦えるんだって、認めさせるんだ!)

 大切なものを守り抜くために。

 応為はゆっくりと顔を上げると、袖口で乱暴に涙を拭った。

 そして、その場にすくっと立ち上がり、政信と清信を真っ直ぐに見据えた。

「政信さん。清信さん」

 涙で赤く腫れた目は、かつてないほどに強く、澄み切った意志の光を宿していた。

「あたし……ウキヨ英士になりたいです」

「応為……」

 政信が、静かにその名を呼ぶ。

「さっき右手に出てきた模様、浮世組のみんなが持ってる極印ですよね! この力で…… みんなを、帝都を守りたい!」

 応為は、まだ微かな熱を帯びている右手の甲を、強く握りしめた。

「お願いです。あたしに、『初摺の儀』を受けさせてください!」


 江戸城龍穴での死闘を経て、帝都は最悪の危機をなんとか脱した。

 だが、大倭衆の真の恐ろしさは、まだその底を見せてはいない。

 来るべき決戦は、そう遠くない未来やってくるだろう。

 しかし、それに抗う新たな決意の炎が、また一つ、力強く産声を上げたのだった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

次回は9月30日(水)19時に更新予定です。

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