底知れぬ重圧
真っ白に染まった視界が、急激に色彩を取り戻していく。
耳鳴りが止み、代わりに聞こえてきたのは、空間そのものを腐らせるような凄まじい絶望のプレッシャーと、聞き覚えのある女の甲高い声だった。
「いでよ、我が忠実なる屍の龍よ! ……帝都を、屍の海へと変えるのよッ!!」
(……戻った!)
俺がハッとして周囲を見渡すと、そこは激闘で崩壊する前の、広大な龍穴の最奥だった。
豊春さんも、豊国さんも、豊広さんも、皆無傷で立っている。
そして、俺の少し斜め前。漆黒のコートを着た広重が、鋭い眼差しで前方の敵を見据えていた。
生きて、そこに立っている。
「……広重!」
俺は無意識に叫びそうになるのを、奥歯を噛み締めて必死に飲み込んだ。
喜んでいる暇はない。
今まさに、あの絶望の元凶が解き放たれようとしているのだ。
視線の先。
夜叉のように顔を歪めた滝夜叉姫が、懐から禍々しい紫の気を放つ一枚の漆黒の呪符を取り出し、虚空へと放り投げる。
たった一枚の呪符が、意思を持つかのように空中で渦を巻き、窪地へと向かう。
あれが髑髏龍を呼び起こした根源。
(……やらせるかよッ!!)
豊広さんを救うために身を呈して凶角に貫かれた広重の姿が、鮮烈に脳裏を過る。
もうあんなことは、二度とごめんだ!
俺は誰よりも早く、限界を超えた力で地を蹴った。
「写楽!?」
隣にいた国芳が驚きの声を上げるが、構わず一気に間合いを詰める。
狙うはただ一つ、宙を舞う一枚の呪符のみ。
「……させねえッ!!」
俺は赤い光を纏う龍輝筆刃を思い切り振りかぶり、渦を巻き始めた呪符へ向けて、渾身の力を込めて縦一文字に振り抜いた。
バヂィィィンッ!!
空間を切り裂くような甲高い音が響き渡る。
俺の赤い光刃が呪符を完璧に捉えた瞬間、紙片に宿っていた禍々しい紫のオーラが爆発的に燃え上がり、そして——赤い閃光に完全に飲み込まれ、灰となって霧散した。
「なっ……!?」
優雅に笑っていた滝夜叉姫の表情が、驚愕に完全に凍りつく。
「貴様……ッ!」
石燕が信じられないものを見るような目で、俺を睨みつけた。
呪符を破壊されたことで、窪地に渦巻こうとしていたどす黒い瘴気は行き場を失い、音を立てて空中に溶けていく。
地鳴りも、岩盤の崩れる音もしない。
髑髏龍が這い出してくる気配は、完全に消え去っていた。
「おい写楽、お前……急にどうしちまったんだ!?」
俺の常軌を逸した突進に、国貞が呆気にとられたように声をかけてくる。
俺は荒い息を吐きながら、赤い光刃を下ろし、ゆっくりと振り返った。
そこには、怪訝そうな顔をしながらも、命を燃やして立っている広重の姿があった。
(……変えられた。俺が、運命を上書きしたんだ)
俺は胸元で微かな温もりを残すペンダントを服越しに強く握りしめ、かつてないほどの熱い闘志をたぎらせた。
「……おのれ……ッ!!」
静寂を取り戻した龍穴の最奥に、滝夜叉姫の金切り声が響き渡った。
常に優雅で、他者を見下すような妖艶な笑みを浮かべていた彼女の顔は、今は夜叉のようにどす黒く歪み、怒りに震えている。
「よくも……よくも! 私の可愛い下僕を……ッ! 薄汚い虫ケラどもがァァッ!!」
ドバァァァッ!!
滝夜叉姫の体から、召喚の時に放たれたものと同等、いや、それを上回るほど濃密で赤黒い瘴気が噴き上がった。
「ちぃっ、一旦引け!」
豊春さんが叫び、俺たちは強烈な瘴気の風圧に抗いながら距離を取る。
その凄まじい妖気の爆発へ引き寄せられるように、闇の奥へと姿を消していた蜘蛛丸、春英、そして芳年が再び姿を現し、滝夜叉姫と石燕の背後へと集結してきた。
そして、深手を負いながらも気力を振り絞って追いついてきた北斎が、俺たちに合流する。
狂気に駆られた滝夜叉姫が扇子を振り上げ、俺たち全員をその瘴気で消し飛ばそうとした、まさにその時だった。
——ゴウンッ……。
空間が、いや、世界そのものが一段階、重く沈み込んだような錯覚。
滝夜叉姫が放つ凄まじい瘴気が、突如として発生した底知れぬ重圧の前に、まるで火に水をかけられたようにシュウゥと音を立てて萎んでいく。
「な、なんだ……!?」
俺は思わず息を呑み、足を踏ん張った。
豊春さんも、豊国さんも、北斎も。歴戦のウキヨ英士である彼らでさえ、突然空間を支配したその圧倒的なプレッシャーに、冷や汗を流して動きを止めていた。
俺たちの視線の先。
大倭衆が立つさらに奥の、禍々しい闇の奥底に途方もなく巨大な何かが揺らめいていた。
姿形は、はっきりと見えない。
ただ、底知れぬ闇が、衣を纏った人のような輪郭を形作っているように感じる。
『絶対的なる者』が存在しているという気配だけが、俺たちの本能に直接警鐘を鳴らし、魂を鷲掴みにしていた。
(息が……うまく、吸えねえ……ッ)
恐怖というより、生命としての格の違い。
まるで、神話に登場する覇王に睨み下ろされているかのような、ひれ伏すことしか許されない絶対的な威圧感。
その影は、一切の言葉を発しなかった。
無言で、荒れ狂う滝夜叉姫の前にあるだけ。
「……ッ!」
我に返ったようにハッとした滝夜叉姫は、扇子を持つ手を震わせながら下ろし、すっと瘴気を完全に収めた。
「……申し訳ありません、新皇様。私が、少々熱くなりすぎました」
あの底知れぬ狂気を見せていた滝夜叉姫が、まるで父親に叱られた子供のように、影に向かって恭しく頭を下げたのだ。
そしてその横では、あの尊大で高慢な石燕や、血の気の多い春英たちでさえ、何も言わずに影に向かって深く一礼していた。
(滝夜叉姫や石燕たちが、頭を下げた……? あれはいったい……)
無言の影は、ゆっくりと闇の奥深くへと溶け込むように消えていく。
それと同時に、空間を支配していたあの息苦しいほどの威圧も、嘘のようにスッと消え去っていった。
「……運のいい奴ら。今日は、このくらいにしておいてあげるわ」
滝夜叉姫が、再びいつもの冷酷な笑みを貼り付けた顔で俺たちを振り返った。
しかし、その瞳の奥には、確かな殺意が宿ったままだ。
「命拾いしたわね、帝都の番犬ども」
石燕や、背後に控えていた春英、蜘蛛丸、そして芳年の姿が、滝夜叉姫の足元から湧き上がったどす黒い闇に包まれていく。
「待てッ、芳年!!」
国芳が悲痛な叫び声を上げて飛び出そうとしたが、隣にいた国貞がその肩を強く掴んで引き止めた。
「離せ、兄貴!」
「やめろ国芳! 冷静になれ!」
国貞の苦渋に満ちた声が響く中、大倭衆の姿は闇の中へ溶け込み、江戸城龍穴から彼らの気配が完全に消え去った。
「……はぁっ、はぁっ……」
俺は、足の力が抜け、その場に膝をついた。
龍輝筆刃を地面に突き立て、荒い息を吐きながら、広重の背中を見上げる。
凶角に貫かれることもなく、血を流すこともなく、生きて立っている。
「……広重」
「……写楽。お前、ひとり突っ込むなんて、無茶な真似を……」
振り返った広重のいつもの生真面目な顔を見て、俺は安堵のあまり、思わず顔を綻ばせた。
(ああ、よかった。……本当に、よかった)
俺は、仲間の命を守り抜いたんだ。
胸元のペンダントは、すでにいつもの冷たい金属の感触に戻っていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回は9月29日(火)19時に更新予定です。




